「浄瑠璃坂の仇討」(1672年)といえば、かつては「伊賀越えの仇討」(1634年)・「赤穂義士の討ち入り」(1702年)とともに日本三大仇討と評判をとったものだが、事実関係が入り組んでいるので後二者に比して分(ぶ)が悪く、その座を「曽我兄弟の仇討」(1193年)に奪われつつある。
そこで、事件の顛末を改めて振り返っておきたい。
1668年3月、徳川家康の曽孫で下野宇津宮藩主・奥平忠昌が病死。寵臣・杉浦某は、家督を継いだ昌能(まさよし)(忠昌の嫡男)から「まだおめおめと生きておるのか」と叱責された末に追い腹を切った。
また、同年4月、忠昌の葬儀の席上、重臣・奥平内蔵允(くらのすけ)は、己を面罵した奥平隼人に対し刃傷に及んだ。但し、隼人の反撃で内蔵允は負傷。同輩の仲裁で争闘はかろうじて止み、両人は各々の親戚宅へ預けられた。同夜、内蔵允は切腹して果てた。
同年10月、藩主昌能の裁可が下りた。内蔵允の嫡男・源八(当時12歳)および係累は家禄没収の上で即日追放。隼人および父・半齋は、藩士の護衛付きで江戸の旗本某の屋敷へ送られた。
昌能の計算外だったのは、この処分を不服として、宇津宮藩を見限って浪人となった藩士が40数名にのぼったことだった。
そうこうするうち、先の杉浦某の殉死の一件が幕府の耳に入った。幕府はこれを従来から推進してきた殉死制禁施策へのあてつけと解し、奥平家の家禄を2万石削り、出羽山形藩へ転封した。
さて、1672年、源八ら40数名は、隼人らが移り住んでいた市ヶ谷浄瑠璃坂の戸田某の屋敷へ討ち入った。
しかし、父・半齋こそ討ち取ったものの、隼人の姿が見当たらなかった。仕方無く戸田邸から一旦引き揚げたところ、隼人が手勢を率いて追撃してきた。源八一党はこれ幸いと迎え撃ち、隼人を仕留めた。
事件後、出頭してきた源八一党に対し、将軍家綱は厳罰で臨もうとしたが、彼らの忠義を愛でる大老・井伊直澄の尽力により彼らはなんとか助命され、伊豆大島へ流された。
6年後、恩赦で戻って来た源八は、彦根藩に召し抱えられた。他の者たちも、それぞれ諸家へ仕官が叶ったという。
吉良打倒に燃える赤穂義士たちの脳裏にも、源八たちの壮挙のことが浮かんでいたのかも知れない。わずか30年ほど前の事件だから、その可能性は充分ある。
ただ、「俺たちも最後の最後には助命され、あわよくば仕官が叶うかも」という淡い期待まで抱いていたかどうかは分からない。
彼らの名誉にも関わることなので、ここで無責任な詮索をするのは、遠慮しておこう。