関西スクエアからのお知らせ

会員の寄稿

『神様のお仕事』
上方文化評論家  福井栄一様

 旧暦十月の異称を「神無月(かんなづき)」という。
 この語源には、古来、多くの学者たちが頭を悩ませてきた。「無(な)」を連体助詞「の」と見做し、「神無月=神の月」と解するのが、ひとまず穏当だろう。
 ところが、いつの時代も、妙に知恵の働く者がいるもので、中世以降、出雲大社の御師たちは「神無月」の語に我田引水の解釈を施した。
 すなわち、「この月には全国の神々が縁結びの相談のために出雲へ参集する。したがって、その間、神が不在になるので『神無月』というのだ」と。この巧みな解釈(曲解?)はさらに発展を遂げ、出雲では十月を神無月ではなく、「神在月」(かみありづき)と呼ぶに至った。
 出雲大社の高い知名度と、庶民の良縁への渇仰に支えられ、「神無月=神々が出雲へ参集する月」というイメージは全国へ広まった。そして、土着の伝説と結びついて、新たな俗伝を生んだ。

 例えば東北には、こんな話が残る。
 密会。.jpg昔から、十月の間は、村の鎮守様は出雲のお宮へ参られて、来年の縁組を相談して決めなさる。九月の末には出雲へ出立なさるから、その日には神送り、十一月のはじめにはお戻りになるから、その日には神迎えをするために、皆で鎮守様の祠へお参りをする。
 神様たちは、出雲へは馬に乗って行きなさる。長旅で疲れて具合の悪くなる馬も多いが、出雲のお宮に生える笹っ葉を食べると、たちどころに元気になる。
 さて、肝心の縁組だが、最初のうちは神様たちも、ひと組ひと組よく相談して、「この男にはあの女がよかろう」「ここの娘にはあの息子がお似合いだ」と縁組みをされる。
 ところが、なにせ一ケ月もこれを続けるものだから、神様たちもさすがに飽きて、段々と嫌になってくる。なかには、やけを起こして暴れる神様も出て来る。それが神荒れで、急に天気が悪くなるのは、神様が癇癪を起こしたせいなのだ。
 さて、そうして終(しま)いに神様たちは、さっさと仕事を済ませるようになる。「ええい、この男にはあの女でも娶らせておけ」「この女にはあの男で充分だろう」などと、縁の深くない男女同士を縁組みなさることもある。
 いつも喧嘩ばかりしている夫婦なぞは、きっとそうやって縁組みされた者たちなのだという。

 思えば神様たちも重労働である。十月は凄まじい数の縁組案件を処理し、平素は祠や社の中に居て、参詣者たちの人生相談に乗る毎日。信仰云々以前に、まずはそのご苦労に対して、合掌。

(完)