関西スクエアからのお知らせ

会員の寄稿

『靱の怪』
上方文化評論家  福井栄一様

 人間のふとした悪戯心は、しばしば怪事を生む。
 井原西鶴の浮世草子『武家義理物語』には、こんな話が載る。

パカッ!.jpg  雨のそぼ降る、ある夜のこと。
 無聊をかこつ若侍たちが某屋敷の一室に集まり、夜通し怪談に打ち興じた。
 そのうち、座の一人が小用に立った。
 すると、悪智慧の働く小坊主が密かにあとをつけ、男に悪戯をしかけた。雪隠の壁の割れ目から古い靭(うつぼ)の毛皮の部分を差し込んで、男の尻を撫でたのである。
 男は慌てふためいて、部屋へ逃げ帰った。その姿のぶざまなことといったらない。見ていて痛快である。これに味をしめた小坊主は、以降も度々、この手を使って、雪隠に来る者を怖がらせた。
 そのうち、
「あの雪隠へ行くと、もののけの毛むくじゃらの手に尻を撫でられる。そのまま居座ると命を取られるかも知れない」
との噂が立ち、日が沈んだ後は誰も寄りつかなくなった。
 さて、後日のこと。他国の者がこの屋敷へ訪ねてきて、事情を知らぬまま、この雪隠を使ったことがあった。屋敷の者たちがなかば面白がって、毛むくじゃらの手の話をわざと耳へ入れなかったのだ。
すると、例の靭が躍り出て、くねくねと生き物のように動き回った。驚いたことに、小坊主が操っているのではなかった。靭がひとりでに跳ね回ったのであった。
 他の者が試してみても同じこと。要は、靭は人間の姿を見るや、自分から動き出すようになっていたのである。
 そこで、家来がその旨を屋敷の主人へ申し上げたところ、主人は、
「最初に尻を撫でられた者が大いに怯えたため、その者の魂が靭へ乗り移って、ひとりでに狂いだしたに違いない」
と断じ、
「それにつけても、矢を収める道具として働くべき靭が、本来の役目を忘れてひとりでに躍り上がり、人心を惑わせるとはけしからぬことだ。心得違いを思い知らせるべし」
と言って、ただちに靭を焼き捨てさせた。
 靭は燃え盛る炎の中で暴れていたが、やがて焦げ死んで灰となったという。

 思えば、靭も気の毒である。小坊主にそそのかされる恰好で悪事に加担しただけなのに、むごい火刑に処せられてしまった。なのに小坊主はお咎めなし。靭が甦って小坊主に祟る第二章があってもおかしくないが、西鶴の筆はそこまでは及んでいない。

(完)