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会員の寄稿

『白萩所望状の謎』
上方文化評論家  福井栄一様

 この時季、各地の寺社では「萩祭」が開催される。
萩といえば、東京都あきる野市の大悲願寺(真言宗豊山派)に、伊達政宗の書状、俗に「白萩所望状」と呼ばれる書簡が残っているのを御存じか。

   御飛脚申入る。先度は御庭の白萩一段と見事に候段、
   所望存じ度ふが先日は申兼候、御あづかり候へば本望、
   以無心之申事候、
   松平陸奥守
    八月廿一日
   大意:飛脚を立てて申し入れ致します。
       先般うかがった際には、お庭の白萩がひときわ
       見事でしたので、実は頂戴したかったのですが、
       あの折には言い出せずに帰ってしまいました。
       そうしたわけで、やはり頂戴できましたら有難く、
       嬉しく存じます。

 何を想う.jpg政宗は、わざわざ家来にこのような書状を持たせて大悲願寺へ遣わし、萩を根分けしてもらって、仙台へ持ち帰っているのである。元和九(一六二三)年ごろの出来事と推定されている。
 字面だけを見ると、「大悲願寺の萩にえらくご執心だったのだなあ。たいした風流心だ」と感心して終わりなのだが、どうも話はそれでは済まないらしい。

 巷説によれば、大悲願寺の第十五世・秀雄(しゅうゆう)の正体は、政宗の異母弟・小次郎(政道)であった。
 伊達家は、世間を欺くために「政道は政宗との家督争いに敗れ、謀殺された」という噂を流した上で、政道を出家させて大悲願寺に匿った。以後、政道は出自を隠し、僧・秀雄として暮らした由。

 さらに、こんな珍説もある。
 秀雄には目をかけていた寺稚児がいたが、その少年こそ、政宗の長女・五郎八姫と徳川家康の六男・松平忠輝との間に生まれた子、すなわち政宗の孫であったというのだ。
 したがって、政宗が大悲願寺をたびたび訪れたのは、なにも庭の萩の美しさに惹かれたからではなく、弟の無事と孫の成長ぶりを自分の目で確かめたかったから、ということになる。
 こうして推論をたくましくすれば、白萩所望状の読み方もガラリと変わってくるだろう。
 すなわち、白萩とは自分の孫の比喩。「白萩を送ってくれ」というのは「いよいよ孫を仙台へ連れ帰るから、当方へ送り届けてくれ」という意味になるわけだ。

 真偽のほどは分からない。歴史のロマンを秘めたまま、大悲願寺境内の萩の花は、今年も秋風に揺れながら咲き乱れる。

(完)