関西スクエアからのお知らせ

会員の寄稿

『晴れても降っても大問題』
上方文化評論家  福井栄一様

 かつての日本社会では、現代人が想像できないほど米作が重要視されていたから、降雨量は常に世人の関心事だった。
 勿論、太陽の恵みは必須で、陽光無しの稲作は有り得ないが、日照りが続いて旱魃ともなれば、これすなわち一国の危機だった。
 そんな折、朝廷はどうしたか。実は定番の対処法があった。「苦しい時の神頼み」である。有力寺社へ命じて、雨乞いの加持祈祷を厳修させたのであった。

 なかでも真言宗は、宗祖空海を筆頭に、雨乞いの修法に長じた傑僧を多数輩出したことで知られる。生涯のうちに幾度も降雨の験を顕して国を救い、「雨僧正」の異名をとった僧も居た。
 しかし、何事にも例外はある。平安期、寺社の渾身の祈祷を以てしても、どうしても降雨に恵まれぬことがあった。放置すれば、田畑は枯れ果て、国は滅んでしまう。追いつめられた朝廷が最後にすがったのが、歌人 小野小町であった。

 神泉苑の畔へ召し出された小町は、こう詠んだと伝わる。

   ことわりや ひのもとなれば てりもせめ
   さりとてはまた あめがしたとは
   (この国は日本(ひのもと=陽の下)というぐらい
    だから、晴天が続くのも無理はないです。
    しかし一方で、天下〈あめがした=雨が下〉という
    言葉もございます。それに免じて、神仏よ、どうか
    恵みの雨を降らせて下さい)

 0039.jpgすると、詠歌が終わるや否や、天が名歌に感応し、たちまち車軸を流すような雨が降った。固唾をのんで見守っていた人々は、慈雨に全身濡れそぼちながら、狂喜乱舞したという。
 こうして小町の逸話はハッピーエンドで終わるのだが、実は問題も残る。
 小町のような有名人に雨乞いを依頼するすべのない田舎の庶民は、いったいどうしたか。
 道はひとつだった。自助努力である。つまり、村落ごとに良かれと信じる方法で雨乞いの儀式をおこなった。

 最も一般的だったのは、鉦・太鼓を叩いて囃しながら祈りを捧げるというもの。大きな音、高い音を立てて空を揺るがせば、雲の上に溜っている雨粒が地上へ落ちて来るに違いないというわけだ。
 他には、池沼へ鎌や鍋などを沈めることも行われた。龍神は金属を忌むという言い伝えを逆手にとり、池沼に棲む龍神にわざと嫌がらせをして暴れさせる。さすれば雨が降るであろうという、素朴な発想からだった。
 これでは龍神もおちおち寝て居られなかっただろう。人間の都合に振り回されて、気の毒な事であった。           

(完)