関西スクエアからのお知らせ

会員の寄稿

『春の鮑』
上方文化評論家  福井栄一様

 春は恋の季節でもあるが、多くの人たちが経験している通り、恋はいつも成就するとは限らない。芝居や小説では、叶わぬ恋の物語ばかりが目につく。作品としてはその方が盛り上がるのだろう。

貝5.jpg さて、相手への一方的な懸想、所謂「片思い」を、昔の人は「磯の鮑(あわび)の片思い」と洒落て表現した。
 鮑は、ミミガイ科の巻貝で、広い足でもって岩などに吸着して暮らしている。巻貝とはいえ、殻が巻いている部分はごくごく小さく、目立たない。
 一方、岩にぴったり貼りついた殻の様子は、まるで二枚貝の殻の片割れのように見える。
 そこで、「片思い」を導き出す洒落に使われるようになった。
 ご存じのように肉は食用として珍重され、鮑のステーキはご馳走の代名詞になっている。また、殻は細工物に利用されるなど、捨てるところのない有用な貝である。

 ところで、鮑については、こんな話がある。
 昔、貧乏長屋に住むある男が、大家の息子の祝言(しゅうげん)に招かれ、祝いの品として鮑を持って行った。
 ところが、根が間抜けだから、祝いの口上がしどろもどろで、験(げん)の悪いことばかり口走ってしまった。怒った大家は、
「こうなったら言わせてもらうが、そもそも鮑というのは、昔から『鮑の片思い』と言って、縁起が悪い品なんだ。さっさと持って帰ってくれ」
と、鮑を突き返した。
 男は鮑を提げ、しょんぼり帰路についた。とぼとぼ歩いていると、途中で友人に出喰わしたので、事の顛末を話して聞かせた。
 友人はそれを聞くなり、義憤に駆られて言った。
 「『鮑は縁起が悪い』とは聞いて呆れる。世の中の祝儀物には『熨斗(のし)』ってものが添えてあるが、あの熨斗は鮑からこしらえるんだ。海女が海の底から採ってきた鮑の肉を薄く切り、筵(むしろ)に並べて干す。それを仲睦まじい夫婦が延(の)すから『のし』と言うんだ。その目出度い熨斗の元が、鮑だ。その鮑を指して縁起が悪いとは、どういう料簡をしてやがるんだ、あの大家は」
 「おい、お前、今から直ぐ引き返せ。そして土足のままで構わないから先方の座敷へズカズカ上がりこみ、着物の裾をぱっとまくってどっかと座り、いま俺が言ったことをガツンと言ってやれ」
 ところが、男は頭をかくばかり。それを見た友人が、
「どうした、何をまごまごしているんだ。言いに行くのが怖いのか」と訊ねると、男曰く、
「俺だって行きたいのはやまやまだが、俺は今日、褌(ふんどし)を締めてくるのを忘れたんだ」。

(完)