関西スクエアからのお知らせ

会員の寄稿

『美人薄命』
上方文化評論家  福井栄一様

 今日では「美人薄命」を「美人は早死にする」と解する人が多いけれども、本来は「薄幸」の意である(勿論、短命も薄幸の一部ではあり得るが)。
 とすれば、世界三大美人と称されるクレオパトラ、楊貴妃、小野小町は、字義通り「美人薄命」だった。生涯を振り返ってみよう。

 まずは、クレオパトラ。クレオパトラ(ギリシア語で「父の栄光」の意)は、歴史上、数人いる。最も有名なのは、クレオパトラ7世(紀元前69年~紀元前30年)である。父・プトレマイオス12世と母・クレオパトラ5世の間に生まれた。紀元前51年、父の死去に伴い、18歳で女王に。3年後、シリアへ追放されるも、ローマの将軍カエサルの助力により女王に復帰。彼との間に一子カエサリオンを成し、ローマへ赴いたが、カエサル暗殺後は子を連れてエジプトへ戻った。[[[[[[[[.jpgその後はアントニウスとの蜜月が続いたが、紀元前30年にアントニウスが自殺すると、あとを追って自害。俗伝では乳房を毒蛇に咬ませたという。あれだけの権勢をふるった女王なのに、墓は未発見。なんとも寂しい話である。

 次に、楊貴妃(719年~756年)。姓は楊、名は玉環。貴妃は称号である。16歳で玄宗皇帝の息子・寿王の妃となったが、22歳の時、玄宗の熱烈な求愛を受け入れて、皇帝の妃となった。755年、従兄の楊国忠と対立していた安禄山が叛乱を起こし、翌年、玄宗は楊貴妃を連れて長安を抜け出し、馬嵬(ばかい)(西安から西へ約60キロ)に落ち延びたが、兵士たちに促されて楊貴妃殺害を命じた。遺骸は郊外に埋められた。その後、都への帰還が叶った玄宗は、密かに楊貴妃の改葬を命じた。側近が馬嵬の墓を暴いたところ、遺骸は消えていた。楊貴妃の生存説や替え玉説はここに由来するのであって、馬嵬を抜け出した楊貴妃は船で日本へ渡り、ひっそりと余生を送ったとの奇説まである。

 最後は小野小町。この人にいたっては、生涯が謎尽くしだ。生没年未詳。家族も未詳。仁明天皇の頃、京で歌人として活躍していたらしいのだが、架空の人物だという識者もいる。史書や古記録の空白が大きければ大きいほど、その分、民衆の想像力はより自由に飛翔できるわけで、小町には「男性不信」「(その裏返しとしての)奔放な男性遍歴」「美貌と歌才を鼻にかけた驕慢な女」など、さまざまなレッテルが貼られてきた。挙句、「晩年の小町は醜い老女と化し、寄る辺なく各地を漂泊して野垂れ死んだ」とのイメージが定着。薄命(短命ではないが)の典型に祀り上げられて(?)しまっているのだ。

 人生100年時代が叫ばれる今日。勿論、薄命は願い下げだとしても、短命でなければ(ただ長命であれば)それでよい、とも言えまい。いかに生き、いかに死ぬか。難しい時代になってきた。

(完)