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会員の寄稿

『聖徳太子の墓』
上方文化評論家  福井栄一様

 人は誰しも、独り穴から出て、独り穴へ入る。それが人生だ。偉人だって、死ねば庶民と同じく墓へ入る。では、かつては紙幣の意匠にまでなっていた聖徳太子の墓の在処をご存じか。

 有力視されている比定地は、叡福寺北古墳(大阪府太子町)である。古くから、聖徳太子墓あるいは聖徳太子廟とも呼ばれてきた。
 叡福寺北古墳は、直径約50メートル、高さ約10メートルの円墳。周囲は結界石と呼ばれる列石で二重に囲われている。この古墳は俗に「三骨一廟」と評される。横穴式石室内に三つの棺が合葬されているからだ。そして、三人の被葬者は、聖徳太子、母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)、妻の菩岐々美郎女(ほききみのいつらめ)とされるが、実は異論も多い。

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 なお、同地には次のような伝説が残るので、紹介しておきたい。十三世紀末ごろ成立の説話集『沙石集(させきしゅう)』に載る話である。
 河内国の僧・生蓮房(しょうれんぼう)は、本物の仏舎利を感得しようと、十数年もの間、熱心に祈りを捧げていた。
 ある日、彼が聖徳太子廟に詣で、平素にもまして熱心に祈請したところ、廟から抜け出てきた老僧が夢枕に立ち、こう告げた。
 「仏舎利は、汝の隣に横たわる者に乞え。」
 はっと目覚めると、かたわらには、二十歳過ぎとおぼしき歩き巫女が寝ている。揺り起こして事情を話すと、巫女は彼を叡福寺の浄土堂の裏まで案内して、持っていた守り袋の中から小さな水晶の塔を取り出した。塔はまばゆく光り輝いていた。
 そして、驚いたことには、その塔の中から十粒ほどの仏舎利が出てきたのである。巫女は言った。
 「さて、あなたに相応しいのはどの舎利でしょうか。」
 当惑した彼が合掌して、
 「私と仏縁の深い舎利はどれなのか、何かしるしをお示し下さい」
 と仏にすがったところ、中のひと粒がうごめき、彼の方に這い進んできた。
 巫女はこれを見て、くだんの舎利を授けてくれた。
 やがて二人は、聖徳太子廟の前まで戻った。
 感涙にむせんでいた彼がはっと我に返ると、例の巫女は姿を消していた。驚いて近隣の者に聞いて回ったが、見慣れぬ巫女だったと言うばかりで、結局、何処の誰とも知れなかった。

 野暮な詮索と分かっていながらも、やはり気になるのは巫女の正体だ。聖徳太子の化身が女性だと妙だから、太子の母・穴穂部間人もしくは太子の妻・菩岐々美郎女の化身と考えるのが、穏当だろう。更に巫女の若さを勘案すると、妻の方に軍配が上がるか。

(完)