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会員の寄稿

『住吉大社の御田植神事』
上方文化評論家  福井栄一様

 古来、日本国の礎は米作であったから、五穀豊穣を祈念する神事は数多い。中でも重要なのは、正月の予祝、種蒔の際の育苗祈願、そして田植えの際の豊作祈願(御田植神事)である。

 浪花の御田植神事の代表例といえば、住吉大社(大阪市住吉区)のそれを挙げねばなるまい。俗に「すみよっさんのおんだ(御田)」と呼ばれて親しまれている。

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 かつては卜占(ぼくせん)により、苗に良い暦日を選んで催行されたが、大永八年(一五二八)以降は五月二十八日(陰暦)に固定され、明治の新暦導入後は、毎年六月十四日が実施日となった。昭和五十四年(一九七九)年には、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 社伝によれば、御田植神事の由緒は神功皇后にまで遡る。住吉大社鎮座の折、神功皇后が長門国(山口県)から植女を召して御供田(御田)に田植えをさせたのが始まりという。

 神事の当日は、楽人・八乙女(八名の神楽女)・植女(うえめ)・替植女(かえうえめ)・稚児・風流武者・住吉踊の踊り子ら一同が行列をなして御田へ進む。御田の張り出し舞台上では、植女から替植女へ早苗の引継ぎが行われる。御田へ分け入って実際に田植えをするのは、替植女たちである。

 そして、田植え作業の間、舞台および畔では、八乙女の田舞、風流武者の棒打ち合戦、僧形の少女たちの住吉踊などが華やかに繰り広げられる。

 なお、御田植神事の数か月後に御田で収穫された米は、十月の神事で奉納される運びとなっている。

 ちなみに、植女の役は、明治期に大阪新町の芸妓たちへ引き継がれるまで、代々、堺の乳守遊廓(堺市堺区南旅篭町東辺り)の遊女たちが務めていた。神功皇后によって長門国から連れてきた植女一行が、役目を終えてから同地に住み続けた故事によるらしい。

 ただ、乳守の女性たちの以後の歩みは決して平坦ではなかったらしく、こんな話が伝わっている。

 昔、この地出身の官女の一人が、悪性の瘡に苦しめられて勤めを辞し、実家へ戻った。そして、住吉大社に悪病平癒を祈願したところ、「瘡で容色が衰えたとて恥じるに及ばず。むしろその顔を世にさらしたまま、懸命に働くべし」との神託を得た。

 そこで、昼間は地元の農婦に混じって野良仕事に精を出し、夜は遊女たちに混じって廓で働いたところ、たちどころに瘡が治ったという。

 個人的には、この伝承を重くみて、現行方式(植女が早苗を替植女へ引き継ぐ)から原形(植女みずからが苗を植える)へ改めるのが良いと思うが、如何でしょう。

   
(完)