関西スクエアからのお知らせ

会員の寄稿

『花と蕾』
上方文化評論家  福井栄一様

 散りゆく桜花を見て世の無常を嘆じる者は数多い。例えば、『小倉百人一首』にはこんな詠歌がある。

   花さそふ 嵐の庭の 雪ならで

   ふりゆくものは わが身なりけり

 (花を誘って散らす嵐が吹き、庭には桜の花弁が雪のように舞い降っているが、本当に古りゆくものは我が身なのだ)

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 ちなみに、作者は西園寺公経(きんつね)(1171~1244年)。承久の乱では鎌倉方と通じ、太政大臣まで上りつめた。藤原定家の義弟にあたる。散りゆく桜に「あはれ」を見出す美学は、『古今和歌集』以来の伝統であった。

 ところが・・・。

 中には変わり種もいた。筑前博多の守護職・加藤左衛門重氏(しげうじ)である。

 時は仁平(にんぴょう)二年(1152)春三月。重氏は観桜の宴席に居た。一気に呑み干さんと酒盃を上げると、満開の桜樹の枝から蕾がひとつ、盃中へ落ちた。

 これを見た重氏は「満開の桜樹にあっても、咲かぬまま落ちる蕾がある。あはれなるかな」と発心し、妻と幼い息子を捨てて出家、名を刈萱道心(かるかやどうしん)と改め、高野山へ上った。

 それから十三年の月日が流れた。

 道心の息子・石童丸(いしどうまる)は、父の行方を尋ねて高野山へやって来た。応対に出た道心は、石童丸が我が子だと悟ったが、ここで親子の名乗りをしては仏道修行の妨げになると考え、「あなたの御父上とは親友でした。長年、共に修業に励んでおりましたが、昨年の夏、惜しくも病没されました」と嘘をついた。

 父の死を聞かされた石童丸は慟哭の末に出家。父を父と知らぬまま、そのまま道心の弟子になった。

 その後、二人は修行の日々を送ったが、おさまらぬのが道心である。そばに居る実の息子に情が湧き、どうしても修行がおろそかになる。

 思い悩んだ道心は、とうとう高野山を離れ、信濃の善光寺へ身を寄せて、念仏三昧で暮らした。そして、自刻の地蔵像を一体遺して、大往生を遂げた。享年八十三歳。

 ちょうどその頃、高野山の石童丸は霊夢を見た。「汝の父は、かの刈萱道心なり。信州善光寺にて没せり。」

 石童丸は急ぎ善光寺へ赴き、父の遺骸と対面して菩提を弔った。その折、亡父の遺した地蔵像を手本に、みずからも地蔵像を刻んだ。

 なお、これら二体の地蔵は、親子地蔵と呼ばれ、長野市内の往生寺に祀られているという。

合掌。
             
(完)