関西スクエアからのお知らせ

会員の寄稿

『かしく祭のこと』      
上方文化評論家  福井栄一様

 「酒は百薬の長」とは言いながら、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」の諺もある通り、飲み過ぎはいけない。しかし、分かっていながら、ついまた飲んでしまう。止められない・・・。そうやって酒で悩む人たちへ救いの手を差し伸べる寺がある。大阪市北区曽根崎の法清寺である。俗に、かしく寺という。

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 江戸時代、法清寺の西側一帯は、新屋敷という遊所であった。この新屋敷の妓楼「油屋」に、かしくという遊女がいた。馴染み客の中に某藩の侍がいたのだが、かしくにぞっこん惚れ込み、身請けした上、老松町(大阪市北区西天満)の小さな一軒家をあてがった。囲われ者の身とはいえ、ようやく苦界を抜け出したかしく。そのまま平穏に暮らせば、ささやかな女の幸せを味わえたかも知れないが、ほどなく運命は暗転した。

 ある日のこと。実兄が訪ねてきた。生真面目な染物職人で、会う度にかしくの酒乱を諫めていた。というのも、平素はおとなしいかしくだが、ひとたび酒が入ると、人が変わったように騒ぎ暴れて、周囲の人たちを閉口させていたからである。例によって二人は口論となった。折悪しく酔っていたかしくは激高し、近くにあった刃物で兄を刺し殺してしまった。

 吟味の末、かしくの刑は、市中引き廻しの上、千日前の刑場で打ち首と決まった。

 1749年3月18日。刑執行の当日、かしくは牢役人に油揚げを所望した。「奇妙な物を欲しがりおるわい」と訝しがりながらも渡してやると、かしくは、牢内で乱れた髪をその油でなでつけて整えた。死に臨んでの、女の身だしなみであった。

 最期の時、かしくは己の酒乱と罪を悔い、「我、死して神霊となり、世の酒害を絶たん」との誓願を立てたという。これが評判となり、以降、かしくは、節酒・断酒の守り神として信仰を集めることになり、今日に至る。法清寺に建てられたかしくの墓には、今も昔も、酒害で悩む人たちがひっきりなしに訪れ、香華を手向ける。

 ただ、通常の墓石とは違い、かしくの墓は剥き出しで立つのではなく、小さな鞘堂に収められている。「この墓石の破片を水に入れて飲めば禁酒できる」との風評を信じ、墓石を叩き欠いて欠片を持ち帰る人が続出したためらしい。

 ちなみに、毎年3月18日、即ちかしくの祥月命日には、菩提を弔うため「かしく祭」が法清寺にて厳修される。法要が正午から本堂で行われ、引き続き芸能奉納(落語、邦楽邦舞など)が行われる。芸能奉納の世話人は、ご縁があって数年前から私が務めており、出演者の選定や祭事当日の司会進行などを担当している。入場無料、事前予約不要である。大阪の春の風物詩「かしく祭」。毎年のカレンダーの同日に印を付けて頂けたら幸甚です。

 
(完)