2019年12月13日開催ピアニカの魔術師・ミッチュリーさん「中之島プレミアムコンサート」

会員の寄稿

『偃鼠(えんそ)のこと』
上方文化評論家 福井栄一様

 子歳にちなんで、ネズミの話題を少々。

 『荘子』内篇「逍遥遊篇第一」には、こんな逸話が載る。

 ある時、尭(ぎょう)が許由(きょゆう)に言った。

 「太陽や月の光で世が照らされている時に、松明を灯すのは無駄なことです。慈雨に恵まれているのに、灌漑を施して田畑に水を供するのは無用なことです。未熟な私に替わって、先生が天下を治められた方が、万事うまくいくのです。先生にこの国をお譲り致したく存じます。」

 すると、許由はこう答えた。

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 「あなたはこの国を既に立派に治めておられる。いまさら私が代わって王位に就く意味など、ありません。例えば、鷦鷯(みそさざい)が深い森に分け入って巣作りに励むといっても、わずかひと枝あれば、事足ります。また、偃鼠(えんそ)が大河で水を呑むといっても、その小さな腹に入る量など、たかが知れています。私は今の境涯を楽しみ、満足しています。さあさあ、あなたはお帰りになって、休まれるが宜しい。」

 取るに足らないちっぽけな存在、分相応に心安らかに暮らす者の比喩として持ち出されている「偃鼠」。

 漢文の世界では、それを専ら「土竜(もぐら)」と解するが、近世以降の日本の文芸では、「(どぶ)ねずみ」の意として捉えたようだ。その好例は、芭蕉の次の句だろう。

 氷苦く 偃鼠が喉を うるほせり

  

 (溜め置きの水を呑もうとしたら、すっかり凍りついていた。仕方なく氷の破片を口に含んだが、これではまるで、どぶねずみが喉をうるおしているみたいだ。)

 延宝九(一六八一)年、芭蕉三十八歳の冬の日の情景である。細民しか住まない芭蕉庵一帯(江戸深川界隈)には良質の井戸はなく、人々は日々の飲み水を甕や壺に買い置きして暮らしていた。貧窮にあえぐ身を偃鼠(どぶねずみ)に譬(たと)えている。確かにここで「もぐら」と解しては、句が台無しである。

 ところが、小林一茶の手にかかると、偃鼠は別の相貌を見せ始める。

 春風や 鼠のなめる 角田川

 確かに角田川(隅田川)に比べれば、偃鼠はじつにちっぽけな存在である。しかし、その川の水を啜って、偃鼠は懸命に生きていく。 許由の自己卑下でも芭蕉の慨嘆でもない、小さな生命の逞しさ。一茶はそれを看て取ったのだろう。動物句に天稟(てんぴん)の冴えをみせた彼らしい。

 折角の新年なのだ。昨年までのボヤキを封印し、一茶流の偃鼠のふてぶてしさを見習って、少しでも良い年にしよう。

     
(完)