「アベノミクスの行方」講演録(2019/11/06)

会員の寄稿

『モミジという植物はない』
上方文化評論家 福井栄一様

 うっかり忘れがちなのだが、モミジという植物はない。

 秋になり山野の樹木・草本の葉が色づくことを古語では「もみづ」といったが、その動詞「もみづ」の名詞形が「もみぢ」(現代語表記では「もみじ」)である。また、美しく色づいた葉そのものも「もみぢ(もみじ)」と呼んだ。

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 それゆえ、秋に色づいた葉を十把一絡げに「モミジ」と言っても語義上、問題はないのだが、詩歌に採り上げるとなると話は別で、やはり美しいものが選ばれて「モミジ」と称される。日本の植物相では、ハギ、ニシキギ、カエデあたりが代表格である。

 ただ、厄介(?)なのは、美意識も時代によって移り変わるということだ。

 例えば、『萬葉集』のモミジの表記は、殆どが「黄葉」である。 つまり、(「紅葉」の用字と赤く色づいた葉しか思いつかない現代人と違い)奈良朝の歌人たちは、「モミジ」と聞くと、黄色く色づいた葉を想起したらしい。

 その理由には、諸説ある。

 ひとつは、当時の奈良周辺の植生が、秋に赤変するカエデ類ではなく、黄変するハギ類を主にしていたからというもの。

 いまひとつは、同時期の中国の漢詩文の大半が「黄葉」の用字を採用していたので、万葉歌人たちがそれを踏襲したという説だ。

 後者に比べ、前者はシンプル過ぎて、いまひとつ人気がない。しかし、『萬葉集』にカエデ(かへるで)を詠み込んだ歌がわずか二首しかないこと等をみると、案外、正鵠を得ているか。

 ちなみに、黄葉の名所である春日山や龍田山の景色、風・時雨と黄葉の取り合わせを素直に詠む者が多い中、異彩を放つのが柿本人麻呂である。

 黄葉の 散りゆくなへに 玉梓(たまづさ)の

 使ひを見れば 逢ひし日を思ふ(巻第二)

 (大意:もみじ(黄葉)の散りゆく景色につれて死を告げる使者の訪問を受けると、妻と逢った日のことが想い起こされてならない。)

 散りゆく黄葉と人間の運命のはかなさを重ね合わせる着想は、さすが歌聖である。

 ところが、やがて平安期に入ると、歌人たちの関心は「黄葉」でなく、主としてカエデ類の「紅葉」に移った。用字も「紅葉」が一般的になった。これも、同時期の中国の漢詩文の流行を取り入れたからと言われるが、よくは分からない。

 何にせよ、黄だ赤だと右往左往する日中の粋人たちを尻目に、今年も多くの木々草々が、「もみじ」となる。不易流行とは何かを考えさせられる光景である。

  
(完)