第1回中之島プレミアムトーク 河西秀哉氏講演(抄録)

会員の寄稿

『雷神を捕える』
上方文化評論家 福井栄一様

 七月、八月は特に落雷の多い時節である。ひと昔前は、黒雲の立ち込める空がゴロゴロ鳴ると、母親が「おへそを隠さないと、カミナリ様に取られちゃうぞ」と言って子どもを脅したものだが、平成生まれのママさんたちには無縁の風俗だろう。それよりも、パソコン機器への被害を案ずるビジネスマンの方が、雷への怖れは大きいに違いない。

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 ともあれ、雨が降ろうと槍が降ろうと、とにかくもかくにも日々を暮らしていかねばならない地上の人間は、雷鳴や稲光に見舞われたからといって、びくついてばかりもいられない。「現実世界では太刀打ちできないから、せめて想像の世界では意趣返しを」というわけでもなかろうが、日本の伝説の中には、雷を捕まえる話がある。好例は、平安初期成立の『日本霊異記』上巻に収められた「電(いかづち)を捉えし縁(雷を捕えた話)」である。

 ある日、雄略天皇が大極殿にて后と睦み合っていたところ、腹心の部下・少子部栖軽(すくなこべのすがる)が、そうとは知らずに殿舎へ入って来たので、やむなく房事を中断した。

 すると、ちょうどその時、大空で雷鳴が轟いたので、苛立った天皇は、栖軽に「雷神をすぐさまここへ連れて来い」と命じた。そこで栖軽は、赤い髪飾りを挿し、赤い小旗の付いた鉾を片手に馬で諸越(奈良県橿原市西南部)まで行くと、空に向かって「帝のお召しであるぞ」と叫んだ。すると、豊浦寺(とよらでら)(奈良県高市郡明日香村豊浦)と飯岡の中間辺りに落雷があったので、雷神を輿に乗せ、宮城まで運んだ。

 さて、くだんの雷神は光り輝き、その場にいる者は目もくらまんばかりだったので、帝は怖れおののき、沢山の供物を捧げた上で、元の場所へ丁重にお帰り頂いた。そこは現在でも「雷(いかづち)の岡」(奈良県高市郡明日香村大字雷の小丘。標高約110メートル)と呼ばれている。

 その後、数年して栖軽はこの世を去った。帝は、例の落雷の場所に墓柱を立ててやった。碑文には「雷を捕えた栖軽の墓なり」とあった。

 これを見て激怒したのは雷神である。雷鳴を轟かせながら墓柱めがけて落ちかかり、足で思い切り踏みつけた。ところが、柱の裂け目に足が挟まり動けなくなったところを、またもや人間に捕えられてしまった。帝は家臣に命じて雷神を裂け目から救い出してやった。雷神は放心状態のまま、七日七晩、地上に留まっていた。その後、勅命により墓柱が再び立てられた。碑文には「生前も死後も雷神を捕えた栖軽の墓なり」とあった。

 今後、雷を落とされそうになったら、「雷の岡の一件を思い出せ」と言って雷神をたしなめてみよう。効験があるやも知れぬ。

 
(完)