
ナビゲーターで狂言師の茂山童司さん(右)と、第10回のゲストで日本舞踊家の井上安寿子さん
上方芸能の20~30代の演じ手が半世紀前にジャンルを超えて同人誌「上方風流(ぶり)」をつくり上げた。その一人、狂言師茂山千之丞(せんのじょう)の孫、茂山童司が案内する「新編 上方風流」。今回はシリーズ初の女性で、京舞井上流の未来を担う井上安寿子を招き、流儀の歴史や魅力、将来の夢を語り合った。
茂山童司(童)
お見かけしたことは何度もあるんですけど、こうしてお話をするのは初めてですね。
井上安寿子(安) そうですね。舞台はよく拝見しています。
童 お祖父(じい)さまが能楽師の片山幽雪(ゆうせつ)先生で、お母様が京舞井上流家元の井上八千代先生。京舞と能が合体しているおうちですが、安寿子さんのご名字は「観世」さんになるんですか。
安 母が(能楽師の)観世銕之丞(てつのじょう)に嫁いだので、片山姓が観世姓になりました。なので、娘の私も「観世」になります。
童 お母様は京都で、お父様は基本的に東京じゃないですか。別々に家がある状態なんですか。
安 私は「京都に帰る」「東京に帰る」という言い方をしているんですけど、小さいころはよく行き来してました。弟(淳夫)も含めて家族4人がそろう夏に、長野県で一緒に過ごすのが豪華なお楽しみになってるんです。そこでも能の稽古が始まるんですけどね(笑)
童 京都だけじゃなくて、銕之丞先生のところでも生活に能があるわけですね。東京で過ごしていた時期もあったんですか。
安 ありません。ずっとこっちで学生生活も京都です。
童 大学は京都造形芸術大学ですよね。
安 この対談に出られた木ノ下歌舞伎の木ノ下裕一さんは先輩で、たまにお会いします。私、大学時代は舞台のスタッフワークみたいなことをしていました。照明を吊(つ)ったり、舞台監督をしたり。それで木ノ下さんの作品に作業要員で参加したこともありました。
童 なんでしようと思ったんですか。
安 ちっちゃいころから舞台に立つのが当たり前だったのですが、恥ずかしい話で、舞台をつくる工程って全然わからなかったんです。そういうことを知った方がいいなと思って。
童 それができる舞踊家さんって珍しいですよね。ご自身の会「葉々の会」の1回目を(大学内にある劇場)春秋座でされたのは、やっぱり慣れ親しんだっていうのがあって?
安 学生さんにも見てほしいというのがあったので、母校に甘えさせていただきました。2回目以降は別の会場でやっているんですが、いまでも見に来てくれる子がいます。
童 井上流の特徴ってどういうものなんですか。
安 二世(八千代)が能楽の要素や、「人形振り」といって文楽の人形の動きを模倣して舞踊に取り入れました。一番大事なことは三世のときに、五花街の一つ、祇園町とのつながりができたこと。うちの特徴でよく言われることですね。あと、表情をつくらないこと。
童 それは能の影響ですか。
安 お座敷では、わざわざ表情をつくって舞っているより、ちょっと暗い中で自然な方が艶(つや)っぽく見えるんじゃないかということもあると思います。
童 たしかに祇園町の舞妓(まいこ)さんや芸妓(げいこ)さんがすごい笑顔で舞ってはるのは想像できないですね。
安 それと直線的な動きが多い。しながないというか。これは(井上流が)女性ばかりでつないできていて、特に「女性をつくる」ってことをしなくてよかったから。男性が女性を演じる場合みたいに、ちょっと体を小さく見せるとか、しなをつくらなくていい。女性の持つ力強さみたいなものを利用していこうって感じです。
童 力強い女性っていうキャッチコピーは、いまだとはやりそうです(笑)。祇園町(の芸舞妓)の先生もされているんですよね。
安 2、3年前から祇園甲部の舞踊科教師になりました。と言っても、まだまだなので、家元はもちろんなんですが、先代の高弟である、かづ子お師匠さん、政枝お師匠さん、和枝お師匠さん、母の弟子である葉子お師匠さんに助けて頂きながら教えています。
童 みんなで代わる代わる教えてはる感じなんですか。芸妓さんとお年も近いですよね。
安 うちの芸妓さん、舞妓さんは75人ほど。前までお姉さんばっかりやったのに、今は年下も増えてきました。私は主に舞妓さん、仕込みさんの指導をしてますが、たまに上のお姉さんをお教えするときもあります。
童 年上の芸妓さんに教えてるってどんな距離感なんだろう。僕らは年上の玄人を教えることがないので。
安 宴会でこれを舞いますっていうときや都をどり、温習会で、振りをわかっているものだと振りをうつすことがあって、気を遣っていただいています(笑)。まだわからないことも多いので、私の癖がそのまま移っちゃうことがあって。それで怒られたりします。基本の型はかっちり決まっているので。
童 うちはほかの狂言やお能の流儀とも若干違うんですけれど、千作も千之丞も千五郎もあきらも全員違うけど、まあオッケーみたいなところがあって。どの人も持っている芯の部分がうちの家の芸で、その周りの部分はそれぞれで違う。先代の芸を完璧には継承できないのは問題ですが、多様性があると勝手にいい方に解釈しています。
安 それは見てて楽しいですよね。
童 そう言っていただけると(笑)。今後のことも伺いたいんですが、こういうふうになっていきたいというのはあるんですか。
安 日本舞踊自体がちょっと低迷しているので、流儀のことだけを考えるんじゃなく、全体を一緒に盛り上げていければ。いままでうちは、よそとつながりを持たないことで特色を保ってたんですけど、先日、宗家藤間流八世宗家の藤間勘十郎先生にお声がけいただき、初めてご一緒させていただきました。
童 そうなんですね。
安 新しいことに挑戦する楽しみもありますが、まだ修業中なので、自分の流儀はぶれないようにしていかないといけないなという思いもあります。
井上安寿子と、これまでに「新編 上方風流」に登場した能楽師の金剛龍謹(たつのり)、歌舞伎俳優の中村壱太郎(かずたろう)が出演する公演「舞台芸術としての伝統芸能vol.1 一居一道(いっきょいちどう)」が2月20日、京都市のロームシアター京都(075・746・3201)である。それぞれ「珠取海女(たま・とり・あ・ま)」「内外詣(うち・と・もうで)」「娘道成寺(むすめどうじょうじ)」を披露したあと、討論もある。尾上菊之丞も出演。
上方風流の創刊号が世に出たのは1963年。発行者の山田庄一は冒頭の「“いいだしべえ”の記」で、こうつづっている。
「上方文化の衰退が叫ばれ、復興が望まれてすでに久しいものですが、もはや現状は、単に歌舞伎とか、文楽という個々のジャンルだけでは、どうにもならない段階まで来てしまった様です。(中略)生粋の上方育ちが集まって、いいたいこと、書きたいことを発表しているうちに、“明日の上方文化”の方向を見つけることができれば」
山田は1925年、大阪・船場に生まれた。家にはごひいきの歌舞伎役者が出入りするなど、幼い頃から上方の芸能に触れて育ち、交友関係も広かった。刊行当時は毎日新聞で記者をしていた。「学芸部で劇評を書きたかったがなかなかできず、千之丞や米朝に何かできないかと相談したのがきっかけ」と振り返る。
3人で方々に声をかけてできた創刊号は40歳未満の24人が参加。各界で評判を呼び、2号以降も様々な人間が参加した。だが、山田が東京の国立劇場開場の創立メンバーに加わるため新聞社を辞めたことや、メンバーが忙しくなってきたことから8号を最後に「休刊」状態となった。
「上方風流のメンバーからこんなにたくさん文化勲章受章者や人間国宝が出るとは思わなかった。人生最大の仕事になった」と喜ぶ。「今はみな忙しいから難しいかもしれないが、孫の世代にも受け継いでほしいね」
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