ナビゲーターで狂言師の茂山童司さん(右)と、第3回のゲストで文楽三味線弾きの鶴澤寛太郎さん

新編 上方風流

第3回 狂言師 茂山童司(34)×文楽三味線弾き 鶴澤寛太郎(29) (2017年6月5日掲載)

 上方芸能の20~30代の演じ手が1960年代にジャンルを超えて集い、同人誌「上方風流(かみがたぶり)」を編んだ。その一人だった狂言師茂山千之丞(せんのじょう)の孫、茂山童司をナビゲーターに古典芸能のいまを探る「新編 上方風流」。3回目は、いまなお現役で活躍する文楽三味線の人間国宝、鶴澤寛治の孫、鶴澤寛太郎をゲストに、祖父の芸談や文楽の現在について語り合った。

茂山童司(童) 上方風流に参加していた師匠から直接習った血のつながったお孫さんは、今回が初めてなんですよ。

鶴澤寛太郎(寛) 文楽のメンバーで孫は誰もいてないですね。

 文楽では、代々同じ血筋でやってらっしゃる方と、外から入ってこられる方の比率ってどれくらいなんですか。

 血筋は少ないですね。文楽に入る道は二つあって、一つは日本芸術文化振興会の養成システムに応募して「研修生」として入ってくる人。もう一つは直接師匠に弟子入りして「研究生」となる人。それが半々ぐらいで、研究生の中のさらに半分ぐらいが血縁関係者ですね。

 継がない方もわりと多いんですね。落語も基本的には継がない文化ですもんね。かたや能や歌舞伎はだいたい継ぐし、同じ伝統芸でもグラデーションがありますね。

 僕は最初、弟2人と一緒に祖父からお琴を習ってたんです。お小遣いをもらえるから、それにつられて(笑)。その中で三味線やりたいと言ったのは僕だけでした。

 いつぐらいの話ですか。

 10歳ぐらいの時ですね。祖父から公演に呼ばれて行ってたんですが、基本的にはずっと寝てたんですよ。でも、師匠の三味線の音だけは好きで、起きるんです。おじいちゃんみたいな音がいいな、三味線教えてって言ったのがスタートです。

 おじいさまとはいくつ離れているんですか。

 ほぼ60歳ですね。

 え、じゃあ、うちと一緒ですわ。師匠は芸談ってされますか。

 いまだと用事で呼ばれて師匠の家に行ったときに、まあ座れ、みたいになって、コーヒーとかお菓子が出てきて、ぽろぽろと話し出すんです。でも、いろいろ引き出しがあるがゆえに、こんなんもある、あんなんもあるといっぱい出しちゃって、訳がわからなくなる(笑)。だからうまく咀嚼(そしゃく)して、別の機会に聞き直したりしてます。僕しか聴く人はいてへんから、それも僕の仕事だと思っています。

 うちの祖父はあんまり過剰に昔話をしたがらない人でした。聞けば教えてくれるけど、どっちかと言うと、次はこういうことをしたいとか、こういう面白い人がおるとか、しゃべってましたね。祖父は初めて歌舞伎の方と共演したし、初めてテレビドラマに出た狂言師。あらゆることをやっちゃったので、僕が何か新しいことをしても、千之丞さんの孫やからって、かえって注目度が薄くなってしまう(笑)。しかも親父(おやじ)もそんな感じなので、そこからの脱却が難しい。

 僕は、師匠の七光りはほしくないし、僕の努力の結果を見てほしい。人間国宝の孫で弟子だからっていうのはやめてほしい。常にほかの人とイーブンでいたいんです。

 寛太郎さんは、ほかの芸能の同じ世代の人でお付き合いってありますか。

 (桂)吉坊さんにはよくお会いしますけど、あとはほとんどないですね。

 ほかの方とも何でだろうねって話しているんです。吉坊さんは、米朝師匠から昔は暇やったんやと言われたそうですが。

 それ思いますね。文楽はいまの方が圧倒的に公演日数も長いし、公演中も忙しいし、みんながずっと何かをやり続けている感じなんです。公演の本番をやりながら、別の稽古を三つ、四つしていたりする。昔みたいに差し向かいの稽古ができないって、師匠は嘆いています。

 本公演は昼も夜も出るんですか。

 ほとんどがそうですね。大阪と東京の本公演で百三十数日、それ以外に文楽鑑賞教室や若手会、地方巡業なんかも合わせると年間200日は舞台がある。だから、歌舞伎なんかを見に行きたくても時間がかぶって行けない。そうすると、交流も当然できませんよね。もうすこし立場が上がれば、行けるかもしれないけれど。

 文楽って、上方の芸能の中でこの数十年で一番大きな変革があったじゃないですか。上方風流創刊のとき(1963年)は、ちょうど文楽協会ができたころで、みんなぼろかす言うてはる。この前(の大阪市の補助金問題)も大変だったんじゃないですか。

 結局は何も解決はしていないんです。補助金は実際減額されましたし。ただ、変わったことと言えば、大阪府・市、劇場、文楽協会、芸人たちという当事者が、顔を突き合わせて話す機会が増えたことですね。僕もこの世界に入ってからおかしいなと思うことがたくさんあったので、そこを(前の)市長が突っ込んでくれたのはまあよかったとは思っています。

狂言師 茂山童司(どうじ)(34)
 1983年生まれ。祖父は茂山千之丞、父は茂山あきら。86年初舞台。自作の新作狂言を上演する「マリコウジ」、自作コントの公演「ヒャクマンベン」を主宰。

文楽三味線弾き 鶴澤寛太郎(かんたろう)(29)
 1987年生まれ。99年に祖父である鶴澤寛治に入門し、寛太郎を名乗る。2001年に初舞台。文楽協会賞など多数受賞。昨年、自身の会を初めて開き、好評を得た。

上方風流発行人 山田庄一さん 「人生最大の仕事になった」

 上方風流の創刊号が世に出たのは1963年。発行者の山田庄一は冒頭の「“いいだしべえ”の記」で、こうつづっている。
 「上方文化の衰退が叫ばれ、復興が望まれてすでに久しいものですが、もはや現状は、単に歌舞伎とか、文楽という個々のジャンルだけでは、どうにもならない段階まで来てしまった様です。(中略)生粋の上方育ちが集まって、いいたいこと、書きたいことを発表しているうちに、“明日の上方文化”の方向を見つけることができれば」  山田は1925年、大阪・船場に生まれた。家にはごひいきの歌舞伎役者が出入りするなど、幼い頃から上方の芸能に触れて育ち、交友関係も広かった。刊行当時は毎日新聞で記者をしていた。「学芸部で劇評を書きたかったがなかなかできず、千之丞や米朝に何かできないかと相談したのがきっかけ」と振り返る。
 3人で方々に声をかけてできた創刊号は40歳未満の24人が参加。各界で評判を呼び、2号以降も様々な人間が参加した。だが、山田が東京の国立劇場開場の創立メンバーに加わるため新聞社を辞めたことや、メンバーが忙しくなってきたことから8号を最後に「休刊」状態となった。
 「上方風流のメンバーからこんなにたくさん文化勲章受章者や人間国宝が出るとは思わなかった。人生最大の仕事になった」と喜ぶ。「今はみな忙しいから難しいかもしれないが、孫の世代にも受け継いでほしいね」

◆「上方風流」創刊号の顔ぶれ
【能楽】片山慶次郎、山本真義、大倉長十郎
【文楽】竹本住太夫、竹本源太夫、鶴澤寛治、吉田文雀、吉田簑助
【狂言】茂山千之丞
【演劇】坂田藤十郎、藤山寛美、石浜祐次郎、大村崑
【大衆芸能】桂米朝、夢路いとし、喜味こいし
【舞踊】吉村雄輝、山村糸、山村楽正、花柳有洸、飛鳥峯王
【評論】山田庄一、権藤芳一、嘉納吉郎