会員の寄稿

『紅葉の哀話』
上方文化評論家 福井栄一 様 

 この時季の観楓は心躍る体験だが、紅葉をめぐっては、哀しい逸話もある。興福寺菩提院周辺に伝わる伝説をご紹介しよう。

 昔、菩提院のそばに、三作という少年がいた。母の手伝いをするかたわら、寺子屋へ通い、熱心に読み書きの勉強をしていた。

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 ある日の昼下がり、寺子屋での出来事。三作は、習字の清書を苦労して書き上げた。本人としては自信作であった。そこで、後で師匠に見せて褒めてもらおうと、天神机の上に置いておいたところ、庭先に迷い込んで来た一頭の鹿が、縁側越しに長い首を伸ばして、三作の大事な清書をむしゃむしゃと食べてしまった。

 頭にきた三作は、驚かせて追い払うつもりで、机上の文鎮を鹿めがけて放り投げた。すると、何の因果か、文鎮は鹿の眉間に命中し、鹿はその場に倒れ込んで絶命してしまった。

 奈良では、鹿は春日大社の神使として崇められており、故意過失を問わず、これを殺めた者は「石子詰め」の刑に処せられる定めであった。石子詰めとは一種の私刑で、地面に深い縦穴を掘り、そこへ鹿殺しの犯人と鹿の死体を荒縄でぐるぐる巻きにして放り込み、上からたくさんの石を投じて生き埋めにするという恐ろしい刑罰であった。

 やがて、母親の懇願をよそに、定法通り、幼い三作は生き埋めにされた。母子の悲運を憐れんだ寺では、以後、明けの七ツ(午前4時)に七回、暮れ六ツ(午後6時)に六回の計十三回、鐘を撞いて三作の菩提を弔った。三作の年齢にちなんで撞かれる十三回の鐘はいつしか「十三鐘」と呼ばれ、人々の涙を誘った。

 さて、遺された母親は、それから毎日、息子の埋められた場所へ行き、香華を手向け続けた。そして、しばらくして、ふと思い至った。「私が死んだら、三作のために花を供える人もいなくなる。それどころか、息子の存在すら忘れ去られてしまう」と。

 そこで母親は、後世の人たちに三作のことを思い出してもらうよすがとして、その地にもみじの木を植えた。世にいう「鹿にもみじ」の取り合わせは、ここに始まるとも伝わる。

 十三鐘の伝説は相当流布していたようで、元禄期、近松門左衛門は、これに取材して浄瑠璃『十三鐘』を草した。上方の三味線音楽である地歌の中にも、その名もずばり『十三鐘』という曲があり、時折、演奏されている。

 秋の奈良観光の際、少し足をのばして、菩提院を訪れてみられてはいかが。 

(完)