ナビゲーターで狂言師の茂山 童司さん(右)と、第14回のゲストで人形浄瑠璃文楽太夫の竹本 小住太夫さん

新編 上方風流

第14回 狂言師 茂山 童司(35)×人形浄瑠璃文楽太夫 竹本 小住太夫(30)(2018年5月7日掲載)

半世紀前、上方芸能の20~30代の演じ手がジャンルを超えて集い、伝説的な同人誌「上方風流(ぶり)」をつくり上げた。その一人、狂言師の茂山千之丞(せんのじょう)の孫、茂山童司がナビゲーターを務める「新編 上方風流」。今回は人形浄瑠璃文楽の人間国宝で同人に参加していた竹本住太夫の弟子、竹本小住太夫をゲストに招いた。

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茂山童司(童) 客席から見ると、おっきく見えますよね。声もおっきいし。入門されて何年ですか。

竹本小住太夫(小) 大学4年だった21歳の時に福岡から出てきて、9年目です。

そもそも文楽に興味を抱いたのは?

住太夫師匠の舞台を福岡の博多座で見て感動したんです。芸能は絵画とか小説と違って、名人が生きている間にしかほんまもんは見られない。すごい人たちがいる間にいろんなもん見とこうと思ったのが18、19歳のときでした。

ご覧になった時点で、すぐに入門とはならなかった。

僕は文楽というジャンルより、住太夫の芸にほれたところが強くありまして。大阪、東京と公演のあるたびに、博多駅から高速バスに乗っていって。入門したらずっとそばで聞かしてもらえるな、という気はあったんです。

どんな感じなんですか。お会いして「弟子にしてください!」みたいな?

楽屋にごあいさつに行ったら、師匠独特の大阪弁で「兄ちゃん、文楽好きか」「何べんも見いや」と言われて。それからまた公演に通うようになって。随分悩んだんですけど、これしかないと自分に言い聞かせて、「ならせてください」と言いました。

入門から初舞台まではどれくらいだったんですか。

10カ月くらいです。かなり急ごしらえだったので、プロになっても先輩方に「そんなんも知らんのか」と言われることが多く、恥ずかしい思いをしました。

大変ですよね。舞台に集中していればいいというわけではなくて。

師匠にも、早うこの子に文楽というものを身につけさせてあげたいという思いがあったようで。現役時代は師匠自身のお稽古を隅で聞かせていただくこともありました。

住太夫師匠って1人で稽古されるんですか。

take-sub0507.jpg それもありますけど、相方の(三味線の)野澤錦糸(のざわきんし)師匠ともされていました。そこから立(たて)稽古、人形と合同の舞台稽古。初日もご自身で録音して、家に帰って聞くという感じでした。

うちの(人間)国宝(十二世千五郎)とはえらい違いです。茂と宗彦が稽古つけてくれと行った時なんか、「お前こっちや」「わかったか、ほなやっとけ」と言って、ライターで手本を見せていましたからね(笑)。どうしても稽古したくなかったんでしょうね。

すごいですね。うちの師匠は地方巡業でみんなが出払ったとき、10日間くらいぶっ通しで1対1で稽古をつけてくださいました。毎日3時間くらい。

3時間やって、次の日も3時間。

もう、へろへろですよ。つらい時、翌日まで復習しないことがあったんです。それで翌朝、師匠のお宅へ行ったら、僕に稽古をつけてくれる演目の床本を読んで予習、復習してはった。それを見た時、申し訳ないやら情けないやら悲しいやら。ちゃんとやらなあかんなというのを通り越して、この人の芸に対する向き合い方と同じように、僕はでけへんかもしれんなと思いましたね。それを八十何歳でやってはったから。

生涯、何べんもやっているようなものを......。他のジャンルでも聞いたことないです、そこまでの人は。師匠は本もいっぱい出されていますよね。

学生時代に公演のロビーで買って、帰りのバスで見ていました。いま持っているのは、ほとんどサイン入りですね。

 なかなかないですよ、弟子で自分の師匠のサイン本持ってるって(笑)。 そろそろ自分なりの長所短所が見えてきたのでは?

こうしなさいっていう教えとか、ルールばかりを追い求めて、浄瑠璃に対する考えが足りないですね。どうしてこういう作りなのか、とか。最近も注意されました。お前はすぐ口まねでやろうとするって。

 師匠から、ここはこういう考えだとかは言われないわけでしょう? それはやっぱり自分で考えろってことですよね。

勉強会で1時間くらいの大曲をやらせてもらうなかで、師匠によう言われるのは「お前、みな返してるで」って。要はやっただけになって、次のもんをやるときに何も残っていない。せっかく受け取ったものをみな返してもうてる、と。

へー、それを「返す」っていうんですね。周りからはやっぱり、教えられた通りまねる段階を卒業せなっていう風に見えるんじゃないですか。狂言だと「釣狐(つりぎつね)」「花子(はなご)」「三番三(さんばそう)」ってありますけど、そういうのあるんですか?

卒業論文的な演目はないですね。

 太夫になった以上、ゆくゆくはやってみたいとか、師匠をご覧になっていいなと思った演目は?

師匠は世話物を得意になさっていましたから、憧れているのは世話物が多いんですけど、僕はまだ早いって言われるかもわからないですね。太夫は時代物から始まって世話物へと移行していくんです。基礎は時代物に詰め込まれていて、その応用が世話物ですから。

30歳というと、この対談に出た人の中で真ん中くらいじゃないかな? 僕と同じ83年生まれってあまりいなくて、つくづく谷間の世代だって思うんですよね。だから次の世代がムチャしたときに怒られへんように、できるだけムチャしておこうと。うちの祖父が随分やってたので、灯を消さないように。

 いまの60代、うちの兄弟子の世代はそういうことをやりにくかったようですけど、僕ら世代になると逆にはじけてやっている気がします。「上方風流」はどうなんでしょう。当時は新しいことやったんですかね。それとも何かをつなぎ留めるためだったんでしょうか。

何かせなっていうのはあったんじゃないですかね。千之丞や住太夫師匠もそうですけど、大正生まれぐらいの世代から、時代や状況がすごく変わってきてる中で、それに適応するのか、適応せずに守るのかっていう選択肢が出てきた。そういう思想の選択もなかったじゃないですか、昔は。

なるほど。

今の時代、好みが細分化され、昔みたいに大ヒットがなくなったとかいいますよね。けれども、たとえ同じ曲を口ずさめなくても、それをできない断絶された人間同士としてつながり合える。古典みたいに何百年も伝わってきたものって意外と普遍性があって、わかり合えないっていう人同士をつなぐツールになり得るんじゃないかなって。

 ここに来て古典の役割が出てきているというか。

 キミのものでもないし、オレのものでもない。それを超越したみんなのものだから、みたいな。好みの問題を超越したものになれれば、伝統的なものって強いのかなって思ったりもします。

◇ 竹本住太夫さんは4月28日、93歳で亡くなりました。

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狂言師 茂山童司(しげやま・どうじ)(35)
1983年生まれ。祖父は二世茂山千之丞、父は茂山あきら。初舞台は86年。新作狂言「マリコウジ」やコント公演「ヒャクマンベン」を作・演出。12月に三世茂山千之丞を襲名する。
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人形浄瑠璃文楽太夫 竹本小住太夫(たけもと・こすみだゆう)(30)
1988年福岡県生まれ。2010年1月に竹本住太夫に入門、同年10月に国立文楽劇場で初舞台。15年度と17年度、技芸が特に上達した若手に贈られる文楽協会賞を受賞。

上方風流発行人 山田庄一さん 「人生最大の仕事になった」

 上方風流の創刊号が世に出たのは1963年。発行者の山田庄一は冒頭の「“いいだしべえ”の記」で、こうつづっている。
 「上方文化の衰退が叫ばれ、復興が望まれてすでに久しいものですが、もはや現状は、単に歌舞伎とか、文楽という個々のジャンルだけでは、どうにもならない段階まで来てしまった様です。(中略)生粋の上方育ちが集まって、いいたいこと、書きたいことを発表しているうちに、“明日の上方文化”の方向を見つけることができれば」  山田は1925年、大阪・船場に生まれた。家にはごひいきの歌舞伎役者が出入りするなど、幼い頃から上方の芸能に触れて育ち、交友関係も広かった。刊行当時は毎日新聞で記者をしていた。「学芸部で劇評を書きたかったがなかなかできず、千之丞や米朝に何かできないかと相談したのがきっかけ」と振り返る。
 3人で方々に声をかけてできた創刊号は40歳未満の24人が参加。各界で評判を呼び、2号以降も様々な人間が参加した。だが、山田が東京の国立劇場開場の創立メンバーに加わるため新聞社を辞めたことや、メンバーが忙しくなってきたことから8号を最後に「休刊」状態となった。
 「上方風流のメンバーからこんなにたくさん文化勲章受章者や人間国宝が出るとは思わなかった。人生最大の仕事になった」と喜ぶ。「今はみな忙しいから難しいかもしれないが、孫の世代にも受け継いでほしいね」

◆「上方風流」創刊号の顔ぶれ
【能楽】片山慶次郎、山本真義、大倉長十郎
【文楽】竹本住太夫、竹本源太夫、鶴澤寛治、吉田文雀、吉田簑助
【狂言】茂山千之丞
【演劇】坂田藤十郎、藤山寛美、石浜祐次郎、大村崑
【大衆芸能】桂米朝、夢路いとし、喜味こいし
【舞踊】吉村雄輝、山村糸、山村楽正、花柳有洸、飛鳥峯王
【評論】山田庄一、権藤芳一、嘉納吉郎