ナビゲーターで狂言師の茂山童司さん(右)と、第9回のゲストで能楽師の金剛龍謹さん

新編 上方風流

第9回 狂言師 茂山童司(34)×能楽師 金剛龍謹(29)(2017年12月4日掲載)

 上方芸能の20~30代の演じ手が半世紀前にジャンルを超えて集い、同人誌「上方風流(かみがたぶり)」を編んだ。その一人、狂言師茂山千之丞(せんのじょう)の孫、茂山童司が案内する「新編 上方風流」。今回は能楽シテ方金剛流の若宗家(わかそうけ)、金剛龍謹(たつのり)を招いた。ともに京都が拠点で、何度も共演する2人ならではの濃厚な対談となった。

茂山童司(童)  龍謹さんがちっちゃかった時分に、何度か(能の舞台に)呼んでいただいて、子方(こかた、子役)をさせていただきました。うちの家はもともと金剛さんにはよくしていただいてて。京都同士ということもありますけどね。

金剛龍謹(龍) (茂山)逸平さんと童司さんには、だいぶ出ていただいて(笑)。いまは逸平さんのお子さんの慶和(よしかず)君によく出ていただいてます。

 お世話になっております。龍謹さんに教えていただいてるんですね。

 稽古させてもらってます。

 金剛流はどれくらい古いものなんですか?

 シテ方の4流派(観世〈かんぜ〉、宝生〈ほうしょう〉、金春〈こんぱる〉、金剛)は全部同じ室町時代にさかのぼりますので、650年ぐらいですね。

 奈良ですか?

 そうですね。大和猿楽四座の一つ「坂戸座(さかとざ)」が金剛流の源流で、そのときは興福寺(奈良市)を拠点に活動させてもらっていたようです。

 京都に移られたのはいつ?

 江戸時代、坂戸金剛家の宗家は江戸におりました。一方、うちの家は野村家といい代々金剛流の能役者でしたが、江戸幕府より金剛姓をいただき金剛宗家の分家格として京都の御所に出仕していました。その後、坂戸の宗家が断絶し、私の曽祖父の初世巌(いわお)が宗家を継承しました。それ以来、ずっと京都です。

 金剛流といえば舞だとよく言われます。違う流派と共演することが多い薪能で、金剛流の舞を観世流の方がご覧になって、「(観世流には)ない型ばっかりや」と驚かれていました。所作や型はお家独特のものが多いのですか?

 独特の型もありますし、とにかく型が多いですね。観世流や宝生流と同じ演目をやっても、金剛流は倍くらい動いているんじゃないでしょうか。いまはできない型もいっぱいあります。ここで宙返り、とか。無理です、みたいな。

 なんでそうなったんですか?

 昔はすごく体の動く人が多かったみたいで。走り込みで鬘帯(かずらおび)が舞台と平行になったとか、異名が「足早又兵衛」とか。これ、ほんまに能楽師の異名かと(笑)。超人的な伝説を残している人がいっぱいいる。そういう方がご自分の芸を発揮されるために型を作って、いま我々が苦しんでいるという......。

 すごいですね(笑)。いま京都にいらっしゃるお家元は金剛流だけです。関西の芸能という意味で中心的なお家だと思いますが、特に京都だとか、関西だという風に意識されることはありますか。

 特に京都だからこういう舞い方をしようというのはないんですが、よく京都風の舞台ですねと言われます。いままでの稽古で自然とそうなってきたのかもしれませんね。

 いまの関西の能やお流儀の状況は、どう考えてらっしゃいます?

 最近は異流共演が非常に増えましたね。3年前から宝生流のご宗家と会をさせてもらってますし、(観世流の)片山九郎右衛門さんとは「舎利(しゃり)」を舞わせてもらいました。そういう流れの中で、能が変わってきているのかなと思います。これから我々若い世代がどっちの方向に舵(かじ)を切るべきなのかは、ちょっと考えますね。

 変化を肯定的に捉えてらっしゃるのか、否定的に捉えてらっしゃるのか。

 うーん、難しいところですよね。他流の上手な方の舞台を参考に採り入れて、技術的な向上を求めて変わっていく。もちろんそうあるべきだけども、一方で流儀の流是みたいなものを守っていく部分も必要で、その辺りのバランスをどう取るべきなのか。

 それをどっちかに振る人は多いじゃないですか。人間ってわからないことをわかりたくて、こうだって決めつけるところがある。最近、そういう人が多いって思うんです。あるものの一面だけを見て、こっちはだめだとか。

 能も価値観がちょっと狭まってきてると感じます。昔はいろんな個性を持った役者がいて、それぞれが独自の魅力的な舞台をされたわけですけど、いい舞台はこうじゃないといけないという締め付けが出てきた気がして。最近非常に画一化してきてますでしょう。

 多様性を保ちながら高め合うって、どうしたらいいんでしょう。お互いに勉強しあうと確かに似てきますよね。

 あとは見ていただく方にも、そういう違いを受け入れる度量みたいなものを持っていただくのも大事なのでは。

 なるほど。舞台にいるときはお客さんを意識しますか。

 そうですね。特に東京と京都では見所(けんしょ、客席)の雰囲気が全然違います。東京は腹に刺すような緊張感があって、京都はお風呂にたっぷーんとつかったみたいな感じがあります。

 20年後ぐらい、龍謹さんが50代のときに金剛流はどうなっていたいですか。

 いま現在も直面している問題ですが、能楽師の人数を増やしたいですね。金剛流の職分(職業的な能楽師)はたいへん少ないです。私と同世代は多いのですが、その下がポーンと空く。どうやって増やすかが課題です。

 京都にいると金剛流がそんなには少なくない感じがしますけど、全国で見ると少ないんですね。

 昔はよくいましたよね、地方の謡の先生が。ああいう人が能楽界の裾野を広げてくれていました。いまは少なくなってきて。

 地方で独自にやってらっしゃる方は結構いましたよね。

 いまは交通がすごく発達したから、中央の人が行けちゃうんです。

 画一化の話のときに一つ思ったのが、それです。いまはえらい先生がどこでもすぐ行っちゃう。昔だったら、京都から東京に行くにも汽車で何時間もかかっていた。

 いま京都市立芸術大学の非常勤講師をしていて能楽サークルでも教えているんですけど、能の家の生まれではない外の世界から入ってきた子たちにもどんどん能楽師になってほしいです。

 お家元のご長男がそういう考えだし、いまから能楽師になるんだったら、ほかのお流儀よりも結構チャンスが多いかも(笑)

 即戦力ですね(笑)


狂言師 茂山童司

狂言師 茂山童司(しげやま・どうじ)(34)
 1983年生まれ。祖父は茂山千之丞、父は茂山あきら。86年初舞台。自作の新作狂言を上演する「マリコウジ」と、自作コントの公演「ヒャクマンベン」を主宰。

能楽師 金剛龍謹

能楽師 金剛龍謹(こんごう・たつのり)(29)
 1988年生まれ。二十六世宗家の父・永謹(ひさ・のり)、祖父・二世巌(いわお)に師事。5歳で初舞台。金剛能楽堂での定期能に出演するほか、2012年に自身の会「龍門之会」も立ち上げた。

上方風流発行人 山田庄一さん 「人生最大の仕事になった」

 上方風流の創刊号が世に出たのは1963年。発行者の山田庄一は冒頭の「“いいだしべえ”の記」で、こうつづっている。
 「上方文化の衰退が叫ばれ、復興が望まれてすでに久しいものですが、もはや現状は、単に歌舞伎とか、文楽という個々のジャンルだけでは、どうにもならない段階まで来てしまった様です。(中略)生粋の上方育ちが集まって、いいたいこと、書きたいことを発表しているうちに、“明日の上方文化”の方向を見つけることができれば」  山田は1925年、大阪・船場に生まれた。家にはごひいきの歌舞伎役者が出入りするなど、幼い頃から上方の芸能に触れて育ち、交友関係も広かった。刊行当時は毎日新聞で記者をしていた。「学芸部で劇評を書きたかったがなかなかできず、千之丞や米朝に何かできないかと相談したのがきっかけ」と振り返る。
 3人で方々に声をかけてできた創刊号は40歳未満の24人が参加。各界で評判を呼び、2号以降も様々な人間が参加した。だが、山田が東京の国立劇場開場の創立メンバーに加わるため新聞社を辞めたことや、メンバーが忙しくなってきたことから8号を最後に「休刊」状態となった。
 「上方風流のメンバーからこんなにたくさん文化勲章受章者や人間国宝が出るとは思わなかった。人生最大の仕事になった」と喜ぶ。「今はみな忙しいから難しいかもしれないが、孫の世代にも受け継いでほしいね」

◆「上方風流」創刊号の顔ぶれ
【能楽】片山慶次郎、山本真義、大倉長十郎
【文楽】竹本住太夫、竹本源太夫、鶴澤寛治、吉田文雀、吉田簑助
【狂言】茂山千之丞
【演劇】坂田藤十郎、藤山寛美、石浜祐次郎、大村崑
【大衆芸能】桂米朝、夢路いとし、喜味こいし
【舞踊】吉村雄輝、山村糸、山村楽正、花柳有洸、飛鳥峯王
【評論】山田庄一、権藤芳一、嘉納吉郎