ナビゲーターで狂言師の茂山童司さん(右)と、第6回のゲストで能楽師の山本麗晃さん

新編 上方風流

第6回 狂言師 茂山童司(34)×能楽師 山本麗晃(24)(2017年9月4日掲載)

 1960年代、上方芸能を担う20~30代の演じ手がジャンルを超えて集い、いまや伝説の同人誌「上方風流(かみがたぶり)」を編んだ。その一人、狂言師茂山千之丞(せんのじょう)の孫、茂山童司がナビゲーターの対談企画「新編 上方風流」。6回目は同人だった能楽師山本真義の孫、山本麗晃(よしあき)を招いた。拠点とする山本能楽堂(大阪市)の活動を踏まえて、伝統芸の現在を語り合った。

茂山童司(童) 上方風流でお祖父(じい)さまはだいたい能のことを書かれていて、結構節度のあるご意見が多い印象を受けます。うちのじいさんや米朝師匠みたいに好き勝手言わないというか。お祖父さまにお会いになったことはあるんですか。

山本麗晃(麗) 私が7歳の時に亡くなりましたが、初舞台の仕舞はもちろん、稽古はすべて祖父にしていただきました。

 どんな方だったんですか。

 舞台に対してまじめで熱心で、他の人に聞いたら圧倒的に怖い先生だったと言うんですけど、孫の僕にはすごくやさしかった記憶があります。

 山本さんのお家(うち)は大阪の前は京都だったんですよね。

 山本能楽堂を創設した曽祖父の博之の一代前の九代目弥太郎(やたろう)までは京都で200年ほど、いまの三条烏丸のスターバックスコーヒーがあるところで両替商をしていました。祇園祭の鈴鹿山のご神体の能面も山本家が寄贈しました。

 すごいなあ。それが保証人になった友人が逃げたため、お家を畳まなくてはいけなくなり、財を一切放棄して大阪へ移られた。なんで大阪やったんでしょうね。

 それはわからないんですが、両替商の時の友人らを頼ったのかなと思います。弥太郎自身は趣味で能を習っていたんですけど、息子の博之が観世流に入門して能楽師になって、後援者の方にも恵まれ、1927(昭和2)年に山本能楽堂を建てました。

 長く大阪にあるお家というイメージがあったのですが、意外に新しいんですね。いま山本能楽堂さんでは本当にいろいろなことをされてますよね。「上方伝統芸能ナイト」なんて、上方風流の人たちがやりそうな企画です。

 祖父が亡くなった後、上方風流を復活させるイベントがあって、父が代わりに参加し、自分の代でもこのつながりを作れたらと思ったのがきっかけです。能や狂言、文楽、落語などの上方の芸を一つ15~20分で見ていただく企画です。おかげさまで150回を超えました。

 幅広い公演は誰が企画してるんですか。

 父(当主の章弘)と母が中心ですね。父が家の運営を任されるようになった時に、初心者向けの「とくい能」という催しを始めたんです。それをきっかけにいろんなつながりができて、気づいたらこんなに増えていました(笑)

 よくお能のシテ方の方とお話ししていると、いろいろやりたいけれども、なかなかできひんねんと言う方も結構いるんですが、その中ではかなり積極的にやっていらっしゃる。お家では「これはやったらあかんかな」というようなことは気にされない感じですか?

 先日、能と現代演劇とがコラボした「韋駄天(いだてん)」という催しをしたんですけども、能の部分を壊したらだめだという意識はみんな共有しています。ほかにも、日本の能舞台で初めてあかりをカラーLEDにしたんですが、能を舞うところは何も変えずに、照明演出などの環境を変えて新しい世界をつくる。そういう点では、父はいろんなことに挑戦していますね。

 麗晃さんは次代を担っていくお一人ですが、いまはどんな感じなんですか。

 流儀の研修生という立場です。研修制度では5年間、毎年2回ある試験を受けて、7年目に研修能という舞台をつとめさせていただきます。

 いま何年目ですか。

 3年目ですので、あと5年研鑽(けんさん)いたします。

 シテ方はそういうのがきっちり決まっているんですよね。いままでにおシテ(主役)は何番ぐらいされました?

 ありがたいことに結構舞わせていただいていて、15番ぐらいです。

 そのお年頃では多い方ですね。お家がいろいろやってらっしゃるメリットだし、もちろん自分のところで能舞台をお持ちであるメリットですよね。舞台って稽古の努力や才能もあるでしょうけど、どれだけやったかという経験で出来が変わってくる。

 でも、中学3年ごろから反抗期で、高校でバンド活動をしていました。そのころはやる気がなかったというか、本気で能と向き合ってなかった。

 へえ。でもいまは嫌々やっているわけではない?

 高校3年の時、父が足を痛めて半年ぐらい舞台に出られず、代わりをやりなさいと言われて。その時にこの道に戻ろうかなみたいなのがあって、次の年に「石橋(しゃっ・きょう)」を披(ひら)かせていただいて(初めて舞うこと)、そこでこの道を進もうと決意しました。

 なるほど。将来的にやってみたい活動ってあるんですか。

 両親も言っているんですが、上方はお笑いだけじゃなくて、いろんな芸能が盛んになった街なので、上方風流のようにそれをもり立てていける活動を微力ながらしたいなと。

 上方って言葉がいまフェードアウトしかけている感じがしていて、関西でも若い人だと上方と聞いてもわからない人が増えていると思うんです。だから、江戸の文化と違うところを見せていけたらいいですよね。

 上方伝統芸能ナイトでいろんな方とお目にかかれるのは財産です。

 能とか狂言ってどこが面白いの?って聞かれた時に何て言ったらいいかなっていうのがいつも難しいんですけど、能ってどこが面白いと思います?

 能は基本的に同じキャストでやる公演は二度とないんです。本当に一期一会のものが見られる芸能。面白い、面白くないというのは人それぞれなんで、とにかく一回見てほしい。

 僕は、そう聞いてくる時点で潜在的に興味があるんじゃないかって思う。とりあえず何でもいいから見たらいいけど、最初に見るんやったら、うちの家のを見といた方がいいよって言っています(笑)

狂言師 茂山童司

狂言師 茂山童司(しげやま・どうじ)(34)
 1983年生まれ。祖父は茂山千之丞、父は茂山あきら。86年初舞台。自作の新作狂言を上演する「マリコウジ」と、自作コントの公演「ヒャクマンベン」を主宰。

能楽師 山本麗晃

能楽師 山本麗晃(やまもと・よしあき)(24)
 1993年生まれ。3歳のとき仕舞「老松」で初舞台。祖父の山本真義と父の山本章弘に師事。「千歳(せんざい)」「石橋(しゃっきょう)」「猩々乱(しょうじょうみだれ)」などを披く。いまはシテ方観世流の研修生として研鑽中。

上方風流発行人 山田庄一さん 「人生最大の仕事になった」

 上方風流の創刊号が世に出たのは1963年。発行者の山田庄一は冒頭の「“いいだしべえ”の記」で、こうつづっている。
 「上方文化の衰退が叫ばれ、復興が望まれてすでに久しいものですが、もはや現状は、単に歌舞伎とか、文楽という個々のジャンルだけでは、どうにもならない段階まで来てしまった様です。(中略)生粋の上方育ちが集まって、いいたいこと、書きたいことを発表しているうちに、“明日の上方文化”の方向を見つけることができれば」  山田は1925年、大阪・船場に生まれた。家にはごひいきの歌舞伎役者が出入りするなど、幼い頃から上方の芸能に触れて育ち、交友関係も広かった。刊行当時は毎日新聞で記者をしていた。「学芸部で劇評を書きたかったがなかなかできず、千之丞や米朝に何かできないかと相談したのがきっかけ」と振り返る。
 3人で方々に声をかけてできた創刊号は40歳未満の24人が参加。各界で評判を呼び、2号以降も様々な人間が参加した。だが、山田が東京の国立劇場開場の創立メンバーに加わるため新聞社を辞めたことや、メンバーが忙しくなってきたことから8号を最後に「休刊」状態となった。
 「上方風流のメンバーからこんなにたくさん文化勲章受章者や人間国宝が出るとは思わなかった。人生最大の仕事になった」と喜ぶ。「今はみな忙しいから難しいかもしれないが、孫の世代にも受け継いでほしいね」

◆「上方風流」創刊号の顔ぶれ
【能楽】片山慶次郎、山本真義、大倉長十郎
【文楽】竹本住太夫、竹本源太夫、鶴澤寛治、吉田文雀、吉田簑助
【狂言】茂山千之丞
【演劇】坂田藤十郎、藤山寛美、石浜祐次郎、大村崑
【大衆芸能】桂米朝、夢路いとし、喜味こいし
【舞踊】吉村雄輝、山村糸、山村楽正、花柳有洸、飛鳥峯王
【評論】山田庄一、権藤芳一、嘉納吉郎