ナビゲーターで狂言師の茂山童司さん(右)と、第2回のゲストで喜劇役者の藤山扇治郎さん

新編 上方風流

第2回 狂言師 茂山童司(34)×喜劇役者 藤山扇治郎(30)(2017年5月1日掲載)

1960年代、上方芸能の20~30代の演じ手がジャンルを超えて集い、芸に対する情熱をぶつけ合った同人誌「上方風流(かみ・がた・ぶ・り)」があった。その一員だった狂言師茂山千之丞(せん・の・じょう)の孫、茂山童司をナビゲーターに古典芸能のあり方を再考する「新編 上方風流」。2回目は松竹新喜劇を率いた藤山寛美の孫、藤山扇治郎をゲストに迎えた。初対面ながら同じ京都出身ですぐに打ち解け、ともに身を置く「喜劇」について語り合った。

祖父の芝居に心が浄化されたんです。松竹新喜劇がしたいなと。

茂山童司(童) 上方風流って知ってはりました?

藤山扇治郎(扇) 名前は聞いてましたが、実際に読んでみて、こんなすごいもんがあったんやと驚きました。

 当時、お祖父(じい)さま(寛美)はめちゃくちゃ忙しかったですよね。創刊号からメンバーとしてお名前はあるのに、原稿はほとんど書いてない(笑)。それでも参加されていた。上方の芸能や人間だということを強く意識されていたのかなと。

 祖父は僕が3歳の時に亡くなったのでしゃべったことはないんですが、やっぱり上方が好きだったと思います。64年に東京五輪があって文化の東京集中が進むなか、松竹新喜劇ではないですが、上方の人情や助け合いみたいなものは、なくしたらあかんと言ってたと聞いています。

 扇治郎さんはしばらく関東で芝居をした後に、関西に戻ってこられましたが、きっかけは。

 小学1年の時に十八代目中村勘三郎さんの歌舞伎に出させていただき、ずっと子役としてお芝居していたんですが、普通に学校生活を過ごそうと、高校1年で出た勘三郎さんの「桂春団治」を最後に一区切りし、学業に専念しました。でも大学生になって就職活動で何がしたいかを考えた時、やっぱりお芝居がしたいなと。

 それで東京に?

 テレビも舞台もほとんど標準語ですし。新劇がしたくて青年座に入りましたが、一人暮らしは初めてで知り合いもいない。寂しくて、ふと祖父のDVDを見たんです。祖父の芝居って商店街のおっちゃんが困っている人を助けたり、アホな人がまともな意見を言ったり。心が浄化されたんです。そういう人情が大阪には残ってる、松竹新喜劇がしたいなと、その時に初めて意識しました。

 どうやって入団したんですか。

 実は窓口がなくて(笑)。たまたま松竹新喜劇のワークショップがあって参加しました。その翌年が創立65周年で、入団のお誘いをいただいたんです。

 僕は3歳から途切れることなく狂言をしていたんですが、中学生ぐらいの時に板前になりたくなって。料理が好きだったんです。それで修業を見に行ったんですけど、厳しすぎるわって、あっさりあきらめました(笑)。18歳の時には、帰ってくるかどうかわからないまま外国へ。身内には、東欧の富豪の娘に見初められて楽しく暮らすので捜さないで、と告げて出て行きました。でも10カ月ほどたって、こんなんしてたらあかん、何かつくらなきゃと思い、帰国しました。そしたら、休演したベテラン狂言師の代役を1カ月務めることになって。その時ですね、狂言を一生するかなって思ったのは。

新作を生み出さないと途絶えてしまう

 5月の巡業で「親バカ子バカ」をされますね。お祖父さまが主演するDVDを拝見しましたが、あれを今やるとなると、どうしはるんかな。

 お話をいただいた時、僕も同じことを思いました。43年ぶりの再演なんですけど、初演が昭和34(1959)年で、今やると無理がある。だから祖父がやっていたアホ役は「オタク」にリメイクするんです。

 そうすると、台本は真っさらなんですか。

 親子の関係性などは一緒ですが、内容は新作ですね。前の親バカは祖父の芸がすごすぎて、祖父が演じるキャラクターで芝居が回っていました。今回は出演者全員がどこかで主役になるようになっています。

 狂言も松竹新喜劇も人を笑わせる喜劇で、歴史も型もありますよね。

 筋がしっかりしていて、真面目にやっているのを端(はた)から見たら面白い。そこは似ている気がします。何回見ても同じところで笑ってしまうし、「共感できる芸能」という意味でも近い。

 今の人は、テレビの3分とか5分の短いコントや漫才に慣れている。今後どうしていきたいというイメージはありますか。

 今の松竹新喜劇では新作上演がなかなか難しいんです。それに、劇場に足を運ぶって感覚があまりなく、そういう人に見てもらうためには、今起きているニュースを喜劇にするとか、社会性や話題性がある作品が必要だと思っています。

 新作で言うと、狂言師って全国に200人ほどいますが、新しいことをやらず、受け継いできた狂言を大事にして、その結果、なくなっちゃうなら仕方ないという考えの人もいる。そんな覚悟をした人にしか出せないものがあると思うので、それは全然かまわない。でもそうは言っても、今180番あるレパートリーの中でも上演できない作品が増えているので、新作を生み出さないと途絶えてしまうなと思って、僕は新作狂言をつくっています。

 松竹新喜劇は昭和30~40年にできた作品が多い。そのころはコンビニもないし、スマホもない。今となっては差別的表現になってしまうものもある。そういう規制で、松竹新喜劇でも上演できないものは多いんですよ。

 ちょっと古いって、かえって大変ですね。狂言ぐらい古いと、お客さんもあきらめはるんです。室町時代だもんね、しょうがないよねって(笑)。

初めての映画出演、緊張しました、汗かきました

 映画「家族はつらいよ2」(公開中)にも出演されているんですよね。

 今回、山田洋次監督の作品に出演させていただいたんです。映画は初めてでしたので、新鮮でした。舞台は始まったらずっと続きますけど、映画は1分ほどのシーンで丸一日かけるんです。

 山田監督はレジェンドという感じがします。
 
 これまでに松竹新喜劇の舞台を見に来てくださっていて、ごあいさつをさせていただいたことはあったんですが、衣装合わせで監督にお会いした時に、「飛んだり跳ねたりできるかな」って聞かれたんです。ボソッと。僕、警官の役やけど飛んだり跳ねたりっていうアクションシーンでもあるんかなと思ったんですよ。でも、咄嗟に、「はい」って言ったんですよ。
 頼りない警官が家に訪ねてきて遺体を持って行くという役ですが、台本を読んだら、階段からこけたり、重たい遺体を運んだり、遺体を見て震え驚くと書いてあったんです。家の2階で遺体を見るシーンで震えて驚く演技をしたら、1階にいた山田監督が2階に上がってきて、「吐いてください」と耳元でぼそっとおっしゃったんですよ。現場で変えてくださるんですよね。ここは震えるだけじゃなくて吐いた方がいいなとか。
 橋爪功さんをはじめ、まわりはすごい方ばかりで、そのみなさんが1階で待ってはるんです。こけなあかんわ、下のみなさんを待たせとかなあかんわ、山田監督が来るわでものすごい緊張しました。汗かきました。すると山田監督はその汗も「使えるね」とかおっしゃって(笑)。わざと出してるわけじゃないのに。いい経験させていただきました。

 6月は大阪松竹座で「銀二貫」(1~11日)にも出ますね。

 小説の舞台化で、初めて新喜劇以外の舞台で主演をさせていただくんです。うれしいのが、出演者のほとんど全員関西の人なんですよ。

 お話はどんな内容なんですか。

 僕が元々武士の子なんですけども、父親が仇討ちで殺されてしまうんですよ。僕も殺されそうになるんですが、その時にたまたま寒天問屋の主人が近くにいて、懐に銀二貫を持っている。それは大阪天満宮さんに寄付するお金だったんです。その銀二貫で僕を助けて、仇討ちを買い取ってくれるんです。それで武士だった僕が町人として、商人として一人前に成長していくという話なんです。
 
 じゃあ、5月の巡業に続けて立て続けに主演するんですね。

 すごく楽しみなんです。初めての方ばっかりですから。松竹新喜劇の場合だと劇団員同士なので、気心も互いに知っていますが、それがどういうふうな感じになるんだろう。今までにはない新鮮さを感じます。今年30歳になって、自分も老けたなって思うことあるんですよ。ちょっとテレビ見てても、涙もろくなったりとか、全然知らん人の話聞いても、ええことしゃべってはんなあとか。そういうことにグッと心が動くようになったりするんです。

 30歳ちょうどでそれ言うてる人、ちょっと珍しいと思いますよ(笑)

狂言師 茂山童司(34) しげやま・どうじ
 1983年生まれ。祖父は茂山千之丞、父は茂山あきら。86年初舞台。自作の新作狂言を上演する「マリコウジ」、自作コントの公演「ヒャクマンベン」を主宰。

喜劇役者 藤山扇治郎(30) ふじやま・せんじろう
 1987年生まれ。祖父は藤山寛美、伯母は藤山直美。2013年に松竹新喜劇入団。6月に大阪松竹座の「銀二貫」で主演、山田洋次監督作品「家族はつらいよ2」で映画初出演。

上方風流発行人 山田庄一さん 「人生最大の仕事になった」

 上方風流の創刊号が世に出たのは1963年。発行者の山田庄一は冒頭の「“いいだしべえ”の記」で、こうつづっている。
 「上方文化の衰退が叫ばれ、復興が望まれてすでに久しいものですが、もはや現状は、単に歌舞伎とか、文楽という個々のジャンルだけでは、どうにもならない段階まで来てしまった様です。(中略)生粋の上方育ちが集まって、いいたいこと、書きたいことを発表しているうちに、“明日の上方文化”の方向を見つけることができれば」  山田は1925年、大阪・船場に生まれた。家にはごひいきの歌舞伎役者が出入りするなど、幼い頃から上方の芸能に触れて育ち、交友関係も広かった。刊行当時は毎日新聞で記者をしていた。「学芸部で劇評を書きたかったがなかなかできず、千之丞や米朝に何かできないかと相談したのがきっかけ」と振り返る。
 3人で方々に声をかけてできた創刊号は40歳未満の24人が参加。各界で評判を呼び、2号以降も様々な人間が参加した。だが、山田が東京の国立劇場開場の創立メンバーに加わるため新聞社を辞めたことや、メンバーが忙しくなってきたことから8号を最後に「休刊」状態となった。
 「上方風流のメンバーからこんなにたくさん文化勲章受章者や人間国宝が出るとは思わなかった。人生最大の仕事になった」と喜ぶ。「今はみな忙しいから難しいかもしれないが、孫の世代にも受け継いでほしいね」

◆「上方風流」創刊号の顔ぶれ
【能楽】片山慶次郎、山本真義、大倉長十郎
【文楽】竹本住太夫、竹本源太夫、鶴澤寛治、吉田文雀、吉田簑助
【狂言】茂山千之丞
【演劇】坂田藤十郎、藤山寛美、石浜祐次郎、大村崑
【大衆芸能】桂米朝、夢路いとし、喜味こいし
【舞踊】吉村雄輝、山村糸、山村楽正、花柳有洸、飛鳥峯王
【評論】山田庄一、権藤芳一、嘉納吉郎