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直木賞作家・門井慶喜氏 関西プレスクラブ講演詳報 (写真は関西プレスクラブ提供) 

 今年1月に『銀河鉄道の父』という、宮沢賢治のお父さんの目から見た小説で第158回直木三十五賞をちょうだいした。私がその渦中で思ったのは、直木賞というのはオリンピックだなと。普段はその競技にあまり興味がない人も、わっと関心を向ける。そういう、オリンピックに当たる賞なんだなと。


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 芥川賞、直木賞になると、賞自体が一種の文化財という側面がある。実は、関西になじみが深いということにも触れられたらと思う。


 まず、菊池寛の話。彼は京都大学の出身。生まれは高松で、東京の第一高等学校へ入学。当時は、一高を卒業すれば、東京帝国大学へ行くことになるが、菊池寛は退学騒ぎを起こし、京都大学の英文学科に入学した。


 卒業後、新聞記者になった。本人が言うところでは「私は必ずしも有能な記者ではなかった。人に会うのが好きではなかった」。人に会うのが好きではないのに、何で新聞記者を選んだのかというのはあるが、うそではないだろうと思う。


 その後、記者をやめてからは『恩讐の彼方に』や『忠直卿行状記』という作品を書いた。これらが初めて出た雑誌は、『中央公論』。『中央公論』というのは、今と同じような総合雑誌で、その中に小説のページがあり、当時の文壇では、ひのき舞台とされていた。


 ただ、『中央公論』という総合雑誌の創作ページという位置づけで、長編ではない。短編、しかも、30~40枚ぐらい、文庫本にすると20~25ページの非常に短い短編しか載らないが、菊池寛はこれを書くのが非常にうまかった。


 文章が、いい意味で小説らしくない。今、ここで何が起きているかが読者にまっすぐ、誤解の余地なく届く。散文としてはすぐれている。そこにポエジーがあるかというと、芥川ほどではない。


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 菊池寛は、着実な散文を武器にして小説を書くという道を選んだ。当時の彼の特徴は三つある。一つ目は散文的であるということ。


 二つ目は、選ぶテーマ。特に『中央公論』向けには、大きなテーマ。しかも、その当時「人口に膾炙」しているテーマを選んでいる。


 三つ目は、その内容、扱い方は意表を突く。『恩讐の彼方に』が典型的だが、侍を書こう、仇討ちをやろうと、ここまでは誰もが知っているテーマ。ところが、あのラストシーン、仇を討つほうと、討たれるほうが、「みんなのためにトンネルを掘ろう」というので、二人が並んで、ノミでカンカンとやっているというシーン。これは、当時の読者にとっては意外だったと思う。討つか、討たれるか、あるいは、出会わないで終わるかということしかなかったのに、並んで一緒に土木作業をするという、きわめて意外なラストシーンを用意した。


 これらの三つの特徴は菊池寛の小説の特徴であると同時に、我々が日常的に読んでいる新聞や雑誌の、優秀な記事の特徴でもある。我々がある記事を読んで「これ、おもしろいな」と思うとき、この三つがそろっている。そういう意味では、菊池寛は小説家であると同時に、生まれつきの雑誌記者であった。


 さて、当時の純文学で名前が上がり、次に来るのは新聞連載の話。新聞連載というのは大衆小説、純文学ではない。これに手を出すということは、金のために芸術を捨てたという厳しい見方をされるが、菊池はそんなことは気にしない。「お金をもらえて、いいじゃないか」「読者がたくさんいて、いいじゃないか」と。ここで書いたのが『真珠夫人』。何年か前にドラマ化されて、大ヒットしたが、あれは菊池寛の初めての新聞小説だ。


 内容は、当時としてきわめて新しい女性像を提示した。心の美しい若い女性、身分は高いけれどもお金がないために、お金のことしか考えていないおじさんと結婚させられてしまう。しかし、おじさんが病死をした後、彼女は悪女となって、若い男たちをたぶらかして、自分のサロンをつくって男たちをはべらせる。恋を仕掛けては振ってしまうという、この新しい女性像を見よということで『真珠夫人』が新聞連載されると、大評判になった。


 菊池寛には大金が入り、原稿料および印税が、自分が雑誌をつくって売るときの原資になったのだろう。その雑誌は『文藝春秋』。それまで『恩讐の彼方に』とか『父帰る』『無名作家の日記』のような作品を書いていた人がいきなり、こういう大衆小説へ行くというのが作風の上での大転換だった。


 菊池寛は芸術家の枠を大きく外れている。自分の中からわき上がる芸術的感性、芸術の神に奉仕する熱い魂でもって小説というものをなすのであるというのが文学的な作家なので、「売れるから、書こう」というのは、何と志の低さ、何という俗な考えだと思われることを承知でやっているわけだ。


 現に大金を得て、自分のポケットマネーで大正12年に『文藝春秋』を創刊した。当時、既に講談社や新潮社もあった。そういうところが出す、記事も小説もいっぱいある雑誌から見ると、雑誌と思えないぐらいの簡素な体裁で出発した。


 『文藝春秋』は今あるような総合雑誌ではなくて、文壇誌というか、文壇ゴシップ誌だった。 というのは、いくら菊池寛が小説を書いてくれと言っても、誰も書かない。小説なんて月に何本も書けるわけではないので、それは伝統ある『新潮』や『中央公論』に書きたい。『文藝春秋』にはもったいなくて出したくないということが、あったと思う。最初はエッセイしか集まらない。エッセイでも書いてくれたのが芥川龍之介。後に本になったのが『侏儒の言葉』という、岩波文庫に入っている名言集だ。芥川が書き下ろすのだから、人気があった。


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 もう一つの読み物は何かというと、直木三十五の文壇ゴシップ。これが当たった。


 直木三十五は大阪生まれ。小学校のときの成績は毎年、1番。中学校へ進学。当時は、中学校へ進学するだけでもエリートだ。ちなみに彼の本名は植村宗一で、植の字を二つに分けると直木。これが直木の由来。


 彼のお父さんは古着屋でお金持ちではない。長男の宗一君には、岡山の六高へ行って、そこから帝国大学へ行ってもらいたいのが希望だった。ところが、宗一君は遊んでしまい、成績が追いつかない。結局、六高を受験をしないで、帝国大学に入れず、早稲田大学に入学した。東京で暮らし始めると、大阪から追いかけてくる女性がいた。学生にすぎない彼と同棲生活を始め、女の子が生まれる。彼のお父さんは貧しい中で一生懸命、仕送りをするが、当人は遊んでばかりで卒業もしない。


 その後、出版界に入った。当時、海外の著作物に関して、作家に印税を払わず、翻訳が出せた時代で、そこに目をつけた人のもとで『トルストイ全集』をつくる。あまりいい出来ではないが、トルストイなので売れるわけで、印税が入る。これで、お酒を飲んで、散財してしまう。しかし、売れたのは『トルストイ全集』だけ。派手な生活のままで、収入が入ってこなくなって、借金まみれになった。


 そういう生活の中で関東大震災が起きたので、妻子を連れて大阪へ帰る。ここで、彼の第二の関西暮らしが始まる。大阪には当時、プラトン社という出版社があって、雑誌などを出した。小説が欲しいなというときには、編集部員である直木三十五、つまり植村宗一が自分で書いた。


 なかなか評判がよく、短編が映画化されるということになり、京都の撮影所に入りびたるようになった。幸い、作品はヒットしたけれども、後が続かない。同じような派手な生活、借金生活。うまくいかない。


 そこで、再び東京へ戻り、菊池寛と再会。書き始めたのが、先ほど述べた文壇ゴシップだった。直木三十五は、2回失敗している。出版で失敗し、映画で失敗した。ここで、覚悟を決め、文筆一本に絞った。そうすると、これが三度目の成功になる。『南国太平記』は人気を博して、あっという間に流行作家になる。


 直木三十五の名前の由来は、もともとは直木三十一で始まっている。31歳だから、三十一だと。歳をとるごとに、三十二、三十三。三十四は縁起が悪いというのでつけなかったらしいが、三十五にしてからは、36歳になっても三十五、37歳になっても三十五が定着した。菊池寛は直木三十五を使いまくった。直木三十五は、その全部にこたえた。


 もともと体の強い人ではなかったようで、写真を見ると、どれもやせている。それが派手な生活をし、毎晩、徹夜仕事で体がどんどんむしばまれて結核にかかった。あっという間に流行作家になって、あっという間に体を悪くして、直木三十五は亡くなった。


 芥川龍之介はその7年前には自殺している。直木三十五が亡くなって、その翌年に芥川賞、直木賞が創設された。故人を顕彰ということであれば、芥川が亡くなった時点で芥川賞ができてもよかったのかもしれない。そうではなくて、菊池寛は直木三十五が亡くなってからそれを思いついた。だから、両賞の直接の契機というのは、芥川よりも直木三十五の死だったのだろうと私は思う。逆に言えば、菊池寛はそれだけ罪の意識を感じていた。「直木に申しわけないことをした」と思った。


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 菊池寛によると、この賞を創設したことには二つの目的があると。一つは故人の顕彰であり、もう一つは、自分の雑誌をにぎやかにすることであると、書いている。単に故人の顕彰という感傷的なことではない。芥川と直木の名前で雑誌を売るのだと、はっきり言って、この賞が出発した。


 冒頭に申し上げたように、文学賞という名のオリンピックの騒ぎが当分は続くだろう。歴史の末端に立たせてもらっていると考えると、歴史好きの私としては大変光栄だ。私も菊池寛ふうに、せっかく直木賞をもらったのだから、これを利用して次に何をしてやろうかと考えているところだ。



質疑応答


【フロア参加者】 私が中学生のころ門井先生にファンレターを差し上げて、お返事をいただいたことがあった。さっきもサインをいただいた。私のあこがれの先生で、一つご質問をさせていただきたい。美術作品を描写されるのがすごく上手だなと思っている。書かれるときに、知識がない人にも伝わるように書かないといけないと思うが。

【門井】 散文のコツということになるかもしれないが、例えば美術であれば、フェルメールでもボッティチェリでも、何でもいいが、知識のコアの部分はともかく、周辺部分でも、どこか一つは読者が知っていることは必ずあると思う。

 例えばフェルメールのことを何も知らないとしても、牛乳は誰でも知っている。そこをとっかかりにして、牛乳から話を始める。牛乳は16世紀のオランダ人も飲んでいたと。当時、フェルメールという人がいて、メイドさんが大きなポットから牛乳をついでいる絵を描いているというふうに、牛乳から始めれば読者にはわかりやすいだろうと思う。


 今これから読者に届けようとする知識の塊、説明の塊、どこから糸を伸ばしていって読者に届けるかという話だが、そのとっかかりの糸の端っこというのは、必ず読者が知っていることにする。そうすると、読者としても「この文章を読むには知識がないとだめなんだ」と思って、バタンとページを閉じることにはならないだろうと思う。


 この技術自体は、テーマさえ変われば、何回も、何十回、何百回使っても、読者に飽きられない。覚えておいて損はないというか、得することだらけのテクニックかなと思う。



【司会】 先生は寝屋川で、関西で執筆活動を続けられている。その理由と、関西で執筆活動をするメリットをお聞きしたい。

【門井】 関西にいて特筆すべきことは、日本史におけるすべての時代が一地域の中にそろっているということ。古代は奈良、中世は京都、もちろん京都は桓武天皇が開いた都だから、古代にできているが、応仁の乱があり、室町幕府があり、中世のボリュームが非常に大きい。近世は大阪。そして、近代は神戸。そういう、歴史が全部詰まっている感じが、私にはとても大切。毎日、歴史を感じながら過ごすことができるというのは、すごく大きな力だ。当分、引っ越すこともないだろうと思う。
(構成 湯浅好範)